伝記
ペドロ1世は、ブラジル帝国初代皇帝(在位1822年から1831年)である。ポルトガル国王としてはペドロ4世と呼ばれる。ブラジルでは一般にドン・ペドロ1世、「解放者」とよばれ、ポルトガルでは「戦争王」と呼ばれる。1798年10月12日、ポルトガル摂政ジョアン王子の第4子(次男)として、リスボン近郊のケルス宮殿で生まれた。長兄フランシスコが1801年に早世したため、父の推定相続人となり、ベイラ公に叙された。母カルロッタ・ジョアキナはスペイン王カルロス4世の娘で、野心的な女性であり、夫に不誠実で、不満貴族を糾合して打倒をたくらんだという。両親の結婚は不幸で、1802年までに疎遠となり、ペドロと弟妹は両親から離れた宮殿で祖母マリア1世と暮らした。
1807年11月、ナポレオン率いるフランス軍がリスボンに迫り、王室はポルトガルを脱出した。1808年3月、9歳のペドロは家族とともにブラジルの主都リオデジャネイロに到着した。成人すると、母に軽蔑の感情しか抱かず、公然と母を「あばずれ」と呼んだ。幼少期の裏切りと冷たい仕打ちは人格形成に影響を与え、わずかな安定は、家庭教師のドナ・マリア・ジェノヴェーヴァと、監督官の修道士アントニオ・デ・アラービダがもたらした。ラテン語とフランス語を学び、即位後も毎日少なくとも2時間は勉強と読書をした。ただ、教育の欠如は明らかで、歴史学者は彼を、威勢がよすぎ、一貫性がなく、感情的すぎたと評している。座学よりも肉体を使う活動を好み、馬の調教に秀で、描画や木工、音楽にも才能を示した。衝動的で短気で、女遊びに興じる、どうしようもない女たらしでもあった。
1817年5月に、オーストリア皇帝フランツ1世の次女マリア・レオポルディーナと代理結婚した。11月に彼女がリオデジャネイロに到着すると、彼女はすぐ彼と恋に落ちた。しかし、のちにレオポルディーナは、自分は夫の暴力によりまもなく死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に、29歳で亡くなった。1820年にポルトガルで自由主義革命が起こると、ジョアン6世は息子を摂政としてポルトガルに派遣しようとして、ペドロを驚かせた。ペドロは自由主義と立憲議会制の支援者として知られ、1821年2月26日、リオデジャネイロのポルトガル軍が反乱を起こすと、ペドロは反乱軍の側につき、父王に要求を飲ませた。4月26日、王家はペドロと妻を残してリスボンへ帰国した。出発の2日前、父は「ペドロ、もしブラジルが独立するなら、あのような野心家どもでなく、予を敬うお前のためにそうさせよ」と警告したという。
ペドロはブラジル摂政として残り、独立を望む人々に擁立されて、翌1822年に独立を宣言し、皇帝ペドロ1世となった。リベラルな傾向が強く、1824年に立憲君主制の憲法を制定した。しかしアルゼンチンとの戦争に敗れ、かつて併合したシスプラチナ州を失うと、国民から批判され、これが退位の最大の原因とする説もある。インフレの昂進、各地の反乱、愛人ドミティラの専横を許したことや、国民に人気のあった皇后に辛く当たったことで、人気は落ち目となった。ポルトガル王だった父が没すると、ペドロは王位継承を辞退し、娘のマリア2世が正統な継承者とされたが、本国では弟ミゲルが王位を僭称した。七月革命の余波でブラジルでも近衛兵が暴動に加わるのを見て衝撃を受けたペドロは、1831年に皇帝位を長男に譲り、ポルトガル本国に渡って、弟とポルトガル内戦を戦った。内戦はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命したが、間もなくペドロも1834年9月24日にリスボンの宮殿で病死した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・スペンサー (第2代スペンサー伯爵) (1834年没)
- アロイス・ゼネフェルダー (1834年没)
- カール・ハーディング (1834年没)
- ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵) (1834年没)
- ウィリアム・フレデリック (グロスター=エディンバラ公) (1834年没)
同じ地域に関係する人物
- アルメイダ・ガレット (1854年没)
- カルロッタ・ジョアキナ・デ・ボルボン (1830年没)
- John de Brito (1693年没)
- Antonio Ferreira (1569年没)
- シュテファニー・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン (1859年没)