HISTORICAL PERSON · 731年没

ラガンフリド

ネウストリア宮宰としてフランク王国の実権を狙い、フランク王キルペリク2世と結んでカール・マルテルと戦ったが敗れ、勢力を失った。

生涯
731年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ラガンフリドは、フランク王国のネウストリアとブルグンディアの宮宰(715年〜718年)を務めた人物である。731年に没した。ピピン2世の死後、フランク王キルペリク2世と組んで王国の政権を手に入れかけたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルに敗れた。生年も出身地も分かっておらず、拠点はネウストリアのヴェクサンにあったとされる。

フランク王国の全土で実権を握っていたのは、ピピン家のピピン2世であった。メロヴィング家の王たちには実権がなく、息子のドローゴが707年に、グリモアルド2世が714年に亡くなったことで、ピピンの後継の構想は崩れた。ピピンは妻プレクトルードの勧めで庶子のカール・マルテルを退け、グリモアルド2世の子テウドアルドを後継とし、まもなく世を去った。テウドアルドはまだ6歳で、祖母のプレクトルードが摂政として政務を執り、ケルンを拠点とした。カール・マルテルはプレクトルードに投獄された。ネウストリアの貴族たちは、子供と女に支配され、しかも宮宰がアウストラシア人であることに怒りを募らせた。715年、貴族たちはキュイーズの森での戦いでテウドアルドを退け、仲間の一人であるラガンフリドを新たなネウストリアの宮宰に立てた。フランク王ダゴベルト3世もこれに対抗してラガンフリドをネウストリア宮宰に任じたが、ピピン家の政権はこれを無視したという。

ダゴベルト3世が亡くなると、ラガンフリドは修道院にいた修道士ダニエルを連れ出し、キルペリク2世としてネウストリアとブルグンディアの王に立てた。キルペリク2世は戦場に出て政治上の決定も行う王で、以後、二人の行動はほとんど切り離せないものとなった。プレクトルードとテウドアルドは、この王がアウストラシアの宮廷ではなくラガンフリドによって立てられたことを理由に、認めようとしなかった。そこで二人は王とともに軍を率いてアウストラシアに入り、コンピエーニュの戦いで勝利した。テウドアルドはケルンに逃れ、ピピン家の財宝はラガンフリドらの手に落ちた。

716年、二人はアウストラシアに侵入していたフリースラント王レッドボットと同盟を結び、ケルンに向かった。そこへ、囚われの身から逃れて支持者を集めたカール・マルテルが現れたが、準備が整わないまま戦って敗れた。続いてプレクトルードも降伏し、ラガンフリドらは彼女が所持していたアウストラシア宮廷の宝のほとんどと、テウドアルドの独立性の強い権利を奪い、キルペリク2世を正式なフランク王として認めさせた。

しかしカール・マルテルは素早く軍を立て直し、ケルンから戻る連合軍をアンブレーヴの戦いで破った。717年にクロタール4世を王に立てたカールに対し、ラガンフリドはアキテーヌ公ウードと同盟し、内乱はアウストラシアとネウストリア連合の対立という構図になった。それでも717年のヴァンシーの戦い、718年のソワソンの戦いと立て続けに敗れ、アンジェまで後退した。719年までにパリとロワール渓谷がカールの手に落ち、ウードもカールと和睦して、大勢は決した。720年にラガンフリドは抵抗を諦め、ネウストリアの宮廷を追われ、アンジューの小さな領地を除いて所領を没収された。724年にはネウストリア人を率いて反乱を起こしたが、容易に鎮圧された。それでも息子を人質に差し出すことと引き換えに自領を守り、731年に没するまでそこで過ごした。

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