伝記
ウード(オドとも)は、アキテーヌ公(在位:700年以前から735年)である。650年か660年ごろの生まれとされ、没年は735年ごろ、あるいは740年以前ともいわれる。ガリア南西部のヴァスコニア公領とアキテーヌ公領を支配し、領土はロワール川からピレネー山脈に及び、トゥールーズを首都とした。カロリング家と対立し、これに対抗するためアラブと同盟を結んだこともある。大公と呼ばれる。
出自ははっきりしない。ローマ人を先祖に持つとする説があり、同時代のフランク人は、ウードの父を敵であるローマ人としていた。父としてはボギスやベルトラン、あるいはメロヴィング家とは無関係のルプ1世などが挙げられている。偽書のアラオン特許状は、聖ウベルトゥスをウードの兄弟とする。公位の継承は、ルプ1世が死んだとみられる679年、あるいは688年とされ、692年の可能性もあるが、少なくとも700年には支配権を握っていた。711年にはパンプローナの西ゴート王ロデリックと戦ったとされる。715年、ガリアの内乱のなかで独立を宣言したが、王とは名乗らなかったとみられる。
718年には、ネウストリア王キルペリク2世と宮宰ラガンフリドの同盟のためにバスク軍を集めたようで、このとき相手側がウードをアキテーヌの支配者と認めることを提案した可能性がある。ウードらはアウストラシア宮宰カール・マルテルと戦ったが、同年ソワソンでキルペリクが敗れると、王位と宝物を引き渡して和睦した。この経緯の評価は一様ではなく、従来は「副王国」の承認とみる見方が有力だったが、近年はフランク貴族間の同盟と力関係の駆け引きの中に位置づけ直す研究もある。
領土に攻め込んだウマイヤ朝とフランク王国の軍とは、やむなく戦った。721年6月9日、トゥールーズの戦いでアル=サムフ・イブン・マーリクに勝利した。ウマイヤ朝による最初の北への遠征であり、何千もの兵が命を落とした。教皇はこの勝利を贈り物とともに称え、ウードをキリスト教の英雄と呼び、その独立を認めたという。国境を守るため、娘(おそらくランペジア)を、フランク人からムヌザと呼ばれたベルベル人領主ウスマン・イブン・ナイッサに嫁がせた。731年、カール・マルテルはザクセン人に勝つとアキテーヌに目を向けた。ウードがウスマンと結んだことを責め、ロワール川を越えて和平を破り、二度侵攻してブールジュを占領した。ウードは戦ったが敗れた。同じころウスマンは、アブドゥル・ラフマーンの遠征軍に敗れて殺され、娘は捕らえられてダマスカスのハーレムに送られた。ウードはカールへの対応に追われ、助けられなかった。
732年、アブドゥル・ラフマーンの軍はボルドーを荒らし、ウードはその近郊で敗れた。ウードは軍を立て直して北へ急ぎ、カールに脅威を警告して援軍を求め、その見返りに正式にフランクの支配下に入ることを受け入れた。80歳ほどであったが、フランク軍の左翼として加わり、トゥール・ポワティエ間の戦いでは、敵の本陣に侵入して火をつけ、後方を混乱させて勝利に重要な役割を果たしたとされる。戦後もアキテーヌとヴァスコニアの支配者にとどまったが、政治的には大きく弱まったとも評される。735年、退位したか死去し、息子ウナールが継いだ。隠棲した修道院で740年以前に死去したともいわれる。『パルドゥルフス伝』には、アキテーヌでの人気が記されている。
同じ年に亡くなった人物
- コルビニアン (730年)
- Hugh of Rouen (730年没)
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