伝記
ラーム・モーハン・ローイは、1772年5月22日に生まれ、1833年9月27日にイギリスのブリストルで没したインドのヒンドゥー思想家、社会活動家である。寡婦が夫に殉じて焼身自殺するサティーの習慣の禁止に大きく貢献した。「近代インドの父」とされ、近代インドの思想や近代化への影響は大きい。西欧的な合理主義に基づいて、インドの近代化とヒンドゥー教の復興・改革を目指した。
ベンガル地方ブルドワン郡のラードハーナガル村の、バラモンの家系に、小地主ラーム・カーンタ・ローイとターリニーの子として生まれた。両親はともに宗教に熱心で、父はヴィシュヌ派、母はシヴァ派の家の出だった。村でベンガル語と、当時の官用語だったペルシャ語を学び、幼くしてパトナに出て、官吏になる目的でペルシャ語とアラビア語、イスラムの勉強をした。イスラム神秘主義のスーフィズムの強い影響を受けて、ヒンドゥー教の偶像崇拝を疑問に思うようになった。16、17歳のときに、ペルシャ語で偶像崇拝を非難するパンフレットを書き、父の怒りを買って家を出た。4年間各地を巡り、チベットでラマからチベット仏教を学んだとされ、ベナレスでサンスクリット語とヒンドゥー文献を研究した。1796年、22歳で英語の勉強を始めている。
30歳のとき、ペルシャ語で『一神教徒への贈物』を書き、偶像崇拝やすべての宗教の迷信に反対して、「普遍的宗教は神の帰一に基礎づけられる」とした。同じ頃、イギリス東インド会社の財務部で官吏として働いた。この時期は活動の準備期間で、ヴェーダーンタ、タントラ、ジャイナ教を研究して人々と議論し、英語を通して海外を知ることで、その優れた点を思い知り、イギリス文学・文化と、その背景であるキリスト教を学んだ。1815年にカルカッタに住み、ヴェーダーンタの文献を英訳出版して、宗教的な社会改革を訴えた。ヒンドゥー教を守るため、キリスト教の布教には反対した。ベンガル語、サンスクリット語、アラビア語、ペルシャ語、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、英語に通じ、世界の諸宗教の原典を研究して、そこに大きな違いはないと感じたという。ヴェーダを合理的、近代的に解釈し、古代のウパニシャッドに純粋な一神教が説かれていると考えて、多神教を退け、現在のヒンドゥー教は歪められたものとし、古の純粋な姿に戻すことを目指した。
1828年、ブラフモ・サマージ(当初はブラフモ・サバー)を立ち上げた。ウパニシャッドの一元論的教義に基づき、正統派のヒンドゥー教徒と対立した。社会改革では、サティーの廃絶、寡婦の再婚の承認、一夫多妻制への反対を行った。兄が死んだとき、その妻がサティーで殉死したことに大きな衝撃を受けたと言われ、自らサティーの現場へ行ってやめるよう説得することもあった。反対運動は、イギリスの総督を説得して1829年に禁止法が出されるまで続けられた。インド人は西洋の諸科学を学ぶべきだと考え、総督に手紙を書いて訴え、1830年にはヒンドゥー教徒の少年のための無料の英語学校を創設した。1822年にはベンガル語とペルシャ語の週刊新聞を発行し、新聞規制法にも反対した。
1830年、デリーのムガル皇帝アクバル2世の使節として、皇帝の年金の増額を求め、イギリスのインド統治の研究のために渡英した。ムガル皇帝からラージャの称号を受けていた。要求の目的は果たし、フランスにも渡ったが、イギリスに戻った後の1833年にブリストルで客死した。ブラフモ・サマージの活動は、死後10年たって入会したタゴールの父に引き継がれ、会員は増えて隆盛した。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュー・グラス (1833年没)
- オリヴァー・ウォルコット (財務長官) (1833年没)
- バナスター・タールトン (1833年没)
- ゴットリープ・エルンスト・シュルツ (1833年没)
- メアリー・プリンス (1833年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・デニング (1931年没)
- ジョン・ホブハウス (1869年没)
- トマス・テュー (1695年没)
- ダイアナ・ウィン・ジョーンズ (2011年没)
- ジョン・ラカム (1720年没)