HISTORICAL PERSON · 720年没

藤原不比等

飛鳥から奈良初期の政治家。持統から元正まで4代の天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、文武天皇を擁立した。聖武天皇の外祖父で、娘を皇室に嫁がせて藤原氏繁栄の基礎を築いた。

生涯
720年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原不比等(ふじわらの ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家である。斉明天皇5年(659年)に生まれ、養老4年(720年)8月3日に62歳で没した。聖武天皇と孝謙天皇の二帝の外祖父にあたり、史上初めて正一位に叙された人物でもある(死後の追叙)。諡号は淡海公で、近江国に封じられたことによる。

藤原鎌足の次男として生まれ、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳のとき父が死去したが、鎌足は亡くなる直前に藤原氏に改姓しており、不比等がこれを継いだ。父の生前の関係から近江朝に近い立場にあったが、壬申の乱のときは数えで14歳で何も関与せず、近江朝への処罰の対象にも天武朝への功績の対象にもならなかった。中臣氏の有力者が処罰を受けたこともあり、天武朝の初期には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形で、有力な後ろ盾のない不比等は下級官人から身を立てるほかなかったと考えられている。天武7、8年(678年頃)には蘇我連子の娘を嫡妻に迎え、大臣家である蘇我氏の尊貴性を子孫に取り入れた。天武朝の後期には、従兄弟の中臣大島とともに草壁皇子に仕えたとみられる。正倉院宝物の「黒作懸佩刀」は草壁皇子から不比等に授けられた護り刀で、後に二人の共通の孫である聖武天皇に譲られたと伝えられる。

『日本書紀』に名が初めて見えるのは持統天皇3年(689年)2月、判事に任命されたときである。草壁皇子に仕えた縁と、法律や文筆の才により登用されたと考えられている。文武天皇元年(697年)には、草壁皇子の息子である軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、さらに大宝律令の編纂で中心的な役割を果たして、政治の表舞台に登場した。持統末年頃に婚姻関係になったと考えられる橘三千代の力添えもあって皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の宮子が天皇の夫人となった。翌698年には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就けるとされた。従兄弟たちは元の姓の中臣朝臣とされ、神祇官として祭祀のみを担当することになったため、不比等は藤原氏の実質的な家祖ともいえる。

その後、大宝元年(701年)に正三位大納言となり、和銅元年(708年)には正二位、右大臣に進んだ。文武天皇と宮子の間には首皇子(聖武天皇)が生まれ、橘三千代との間の娘である光明子もこの皇子に嫁いだ。光明子は不比等の死後、息子の藤原四兄弟の力で皇后となり、皇族以外から出た初の皇后となった。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移して興福寺と改め、次いで養老律令の編纂に取りかかったが、施行を前に病没した。養老律令が実施されたのは孫の藤原仲麻呂のときである。死後、贈正一位太政大臣とされ、天平宝字4年(760年)に太公望呂尚が斉に封じられた故事にちなんで淡海公を贈られた。

武智麻呂、房前、宇合、麻呂の四人の息子は、それぞれ南家、北家、式家、京家の祖となった。不比等と四兄弟によって藤原氏の繁栄の基礎が固められ、最初の黄金時代がつくられた。なお、不比等は天智天皇の落胤だとする説が『大鏡』などにあるが、平安時代末期の『大鏡』は、天智天皇が身ごもった女御を鎌足に下げ渡す際、男子ならそなたの子、女子なら朕の子にすると告げ、生まれたのが不比等だったと伝える。ただし『公卿補任』の本文などは鎌足の第二子と記しており、歴史学者の間で皇胤説の支持はほとんどない。平城宮の東に隣接する広大な邸地を与えられており、死後、娘の光明皇后がその一部に法華寺や海龍王寺を創建した。

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