伝記
ジョン・ジェイは、アメリカ合衆国の政治家で外交官であり、連邦最高裁判所の初代長官、ニューヨーク州知事などを務めた建国の父の一人である。1745年12月23日(ユリウス暦では12月12日)にニューヨーク市で生まれ、1829年5月17日に没した。ジェイは1780年代の外交を主導し、のちにフェデラリスト党の有力な指導者となった。生家はフランスから逃れたユグノーの子孫で、裕福な商人の一族だった。祖父オーギュストは、1685年にナントの勅令が廃止されて新教徒の権利が奪われたことで財産を没収され、フランスからチャールストン、ニューヨークへと移り、商人として成功を収めた。父ピーターは毛皮、小麦、木材などを扱う富裕な貿易商で、母メアリー・ヴァン・コートランドはオランダ系の出身で、その父ヤコブスは植民地議会の議員を務め、ニューヨーク市長に二度選ばれた人物である。10人の子のうち7人が成人した。生後3か月で一家はライに移った。父は天然痘の流行後に商売から引退したが、2人の子がかかって失明した。
ジェイは幼いころ、8歳まで母に教わり、ニューロシェルで国教会の司祭ストゥープのもとで学んだのち、母と家庭教師から学んだ。1760年、14歳でキングズ・カレッジ(のちのコロンビア大学)に入り、親友となるロバート・リヴィングストンらと出会った。父と同じ急進的なホイッグの立場をとり、財産権と法の支配を守ることを重んじた。1764年に卒業して弁護士ベンジャミン・キサムの書記となり、1767年に修士号を得た。1768年にニューヨークの弁護士資格を得て、1771年に自分の法律事務所を開いた。1774年にニューヨーク通信委員会の秘書となり、これが独立運動への最初の公的な関わりであり、委員会ではイギリスの耐えがたき諸法などの政策に反対する運動を組織した。
第一次大陸会議の代議員に選ばれ、大陸協約に署名し、第二次大陸会議では議長を務めた。独立戦争では外交官として働き、1779年から1782年までスペイン駐在公使を務めて、資金援助を引き出した。1783年のパリ条約では交渉者の一人となって、草案作成に尽力し、イギリスに独立を認めさせた。戦後は連合規約下で外務長官として外交を指揮し、暫定的に初代の国務長官も務めた。連邦主義者の立場をとり、1788年にはニューヨークで憲法の批准に努めた。ハミルトン、マディソンとともに『ザ・フェデラリスト』を書き、85編のうち5編を執筆した。
1789年にワシントンから初代最高裁判所長官に任命され、1795年までその職にあった。この時期の最高裁は仕事が少なく、6年間で4件を判断したにすぎない。1794年にはイギリスとの関係改善のため特別使節として派遣され、ジェイ条約をまとめたが、イギリスに有利だとの批判もあった。最初の四回の大統領選のうち三回で少数の選挙人票を得たが、本格的に立候補したことはない。1795年からニューヨーク州知事を6年務め、段階的な奴隷解放の法を成立させたが、自身は1800年になお5人の奴隷を所有していた。アダムズ政権の末期に上院が再度の長官就任を承認したが、辞退して、ウェストチェスター郡の農場に引退した。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドル・テオドール・ヴィクトール・ド・ラメット (1829年没)
- ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク (1829年没)
- シカンダル・ジャー (1829年没)
- ジャン=バティスト・ラマルク (1829年没)
- ソフィア・アルベルティーナ (1829年没)
同じ地域に関係する人物
- コーネル・キャパ (2008年没)
- ジーン・スタッフォード (1979年没)
- アルマン (美術家) (2005年没)
- マリー=アンヌ・ド・ポルテュガル (1942年没)
- ルーカス・フォス (2009年没)