伝記
ユスティニアノス2世は、東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の最後の皇帝である。668年ごろ、あるいは669年にコンスタンティノポリスで生まれたとされ、父は皇帝コンスタンティノス4世、母はアナスタシアである。後に鼻を削がれたことから「リノトメトス」、すなわち「鼻なしの」というあだ名で呼ばれた。父は兄弟のヘラクレイオスとティベリオスの鼻を削ぎ、ユスティニアノスの即位を確実にしたという。685年、16歳で父の跡を継いだ。有能さを備えながら、帝権を専制的かつ残酷に振るう性格だったと評される。
即位当初は順調だった。東の国境は安定し、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリクが貢納を支払っていた。ユスティニアノスはレバノン山地のマルダイテス人を使ってシリアでゲリラ活動をさせ、688年にはカリフと和睦を結んだ。キプロス島はこれ以降、帝国とイスラーム勢力の共有地となった。東方が落ち着くとバルカン半島へ目を向け、688年から689年にスラブ人やブルガール人に対する遠征を行い、スラブ人に占拠された地域を抜けてテッサロニキに入城し、聖デメトリオス聖堂に寄進した。捕虜としたスラブ人は小アジアのオプシキオン軍管区に移住させ、3万人の軍隊として組織した。ただし帰途にブルガール人の襲撃を受け、辛くも逃れたという。
691年から692年にはトゥルロ公会議を開いた。しかしローマ教皇セルギウス1世がこの決議に反対したので、ユスティニアノスは教皇の逮捕を図り、ローマ市民らの強い反対で失敗に終わった。続いてウマイヤ朝との直接対決に乗り出したが、692年のセバストポリスの戦いでスラブ人部隊が寝返り、惨敗した。度重なる遠征の費用をまかなうための重税や大規模な建築事業は人々の負担となり、宦官で財務長官のステファノスの専横も目立った。695年、軍人レオンティオスがサーカス党派の支援でクーデターを起こし、ユスティニアノスは鼻を削がれてクリミア半島のケルソンへ追放された。
だが復位をあきらめず、黄金製の付け鼻をつけて帝位への復帰を公言した。703年ごろケルソンを脱出してハザール汗国に逃れ、可汗の姉妹と結婚して、テオドラと改名させた。さらに第一次ブルガリア帝国のテルヴェル王の支持を得て、705年にティベリオス3世を倒し、復位を果たした。息子のティベリオスを共同皇帝に据えた。
復位後はランゴバルド王国や教皇とは良好な関係を保ち、711年には教皇コンスタンティヌスが首都を訪れた。一方で猜疑心が異常に強まり、多くの人々を粛清し、710年には反抗的なラヴェンナへ遠征軍を送って略奪させた。708年にはテュアナをウマイヤ朝に奪われ、守勢に立たされていた。711年、ケルソンへ艦隊を送って復讐を図ると、市民が反乱を起こし、艦隊も同調して、同乗していたフィリピコス・バルダネスを皇帝に推戴した。ハザールの支援を受けた反乱軍が迫ると首都は開城し、ユスティニアノスは小アジアで捕らえられ、同年12月11日に殺された。遺体は海に捨てられ、首はラヴェンナとローマに送られて見世物にされたという。息子ティベリオスも、祖母アナスタシアの助命嘆願むなしく殺された。この父子の死により、ヘラクレイオス王朝の支配は101年で終わりを告げた。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・ブン・マルワーン (711年(推定))
- キルデベルト3世 (フランク王) (711年没)
- ティベリオス (ユスティニアノス2世の皇子) (711年)
- K'inich K'an Joy Chitam II (711年没)
同じ地域に関係する人物
- Pythodorida of Pontus (38年没)
- Maximus V of Constantinople (1972年没)