伝記
シシニウスは、650年ごろに生まれたとされる第87代ローマ教皇である。出身はシリアと伝わり、父の名はヨハネスといった。ティルス(ティロ)の生まれともいわれるが、教皇になる前の経歴はほとんど分かっていない。知られていることの多くは、歴代教皇の伝記集である『教皇列伝』のわずか四行の記述から推測されたものである。歴史家ジャン・デュルリアは、その簡潔さについて、ローマの聖職者たちが彼を快く思っていなかった結果とも、教皇位へ自然に至る平凡な経歴を映したものとも解釈できると述べている。
当時、教皇はローマを含むラヴェンナ総督領の一部であるローマ市の司教で、東ローマ帝国の影響下にあった。かつては新任の教皇がコンスタンティノポリスの承認を待つ必要があったが、この時代には総督が承認の権限を持つようになっていた。教皇の選出はローマの聖職者、市民、帝国の駐屯軍にゆだねられていた。604年から752年までの27人の教皇のうち、ローマ出身は8人にすぎず、ローマ以外の出身者が増えていた。シシニウスもそうした一人であり、在位中の金銀の寄進が乏しいことから、おそらく上流階級の出身ではなかったとされる。
先代のヨハネス7世は、皇帝ユスティニアノス2世から送られたトゥルロ公会議の決議をそのまま返した。この問題は、後継者のコンスタンティヌスの時代にも続いた。ヨハネス7世が707年10月18日に亡くなると、約三か月の使徒座空位を経て、708年1月15日にシシニウスが跡を継いだとされる。一方で、選出はおそらく707年10月ごろで、708年1月15日は叙階の日だったともいわれる。
しかし彼はすでに高齢で、重い痛風を患っており、自分で食事をとることもできなかったという。それでも品行が正しく、ローマ市民の暮らしを気づかう人物として尊敬を集めた。短い在位のあいだに行った事績としては、コルシカ島の司教を叙階したことと、ローマの城壁をところどころ修復するための石灰を用意するよう命じたことが挙げられる。この壁の修復計画は、のちにグレゴリウス2世が実行に移した。
708年2月4日、シシニウスは在位わずか21日で急死した。遺体は旧サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。後を継いだのはコンスタンティヌスで、同じくシリアの出身であり、シシニウスの弟であると考えられている。
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