伝記
ダニエル・D・トンプキンズは、アメリカ合衆国の企業家、法律家、政治家で、ニューヨーク州知事とアメリカ合衆国第6代副大統領を務めた。1774年6月21日に生まれ、1825年6月11日に没した。
ニューヨーク州ウェストチェスター郡のスカースデール、一族の屋敷フォックス・メドウスで生まれた。両親は、ジョナサン・グリフィン・トンプキンズと、妻サラ・アン・ハイアットである。兄のケイレブは、のちに連邦下院議員を務めた。1795年にニューヨークのコロンビア大学を卒業し、ジェームズ・ケントらのもとで法律を学んで、1797年に法曹界に入り、ニューヨークで弁護士を開業した。ケントらは連邦派に傾いていたが、トンプキンズは民主共和党員として政界に入った。ミドルネームの「D」については、もう一人の同名の学生と区別するために付け加えたとされ、デシウスの略だという説もあるが、多くは意味を持たないものと考えられている。
1801年にニューヨーク州憲法制定会議の代表となり、1804年に州議会議員となった。同年に連邦下院議員にも選ばれたが、任期の開始前にこれを辞退し、30歳で州最高裁判所の判事の任命を受けて、1807年までその職にあった。1807年4月30日、現職のモーガン・ルイスを破って州知事に当選した。得票は35,074票対30,989票で、33歳での当選はニューヨーク州知事として最年少である。1810年にはジョナス・プラットを、1813年にはスティーブン・ヴァン・レンセリアを、1816年にはルーファス・キングを破って再選され、1817年まで知事を務めた。
米英戦争時には、最も有能な戦時の知事の一人として手腕を発揮した。州民兵軍の再編成で重要な役割を果たし、選択徴兵制を実施して、州軍の基礎を作り上げた。マディソン大統領から国務長官への就任を打診されたが断り、代わりにニューヨーク市を含む連邦の軍管区の司令官に就いた。議会が閉会中、あるいは必要な資金を認めないときには、しばしば私財や個人の信用で借りた金を投じて、民兵の装備と給与をまかなった。しかしこの巨額の支出を詳しく記録しておらず、返済は認められなかった。1815年にはスタテン島の東部海岸に居留地を作り、トンプキンズビルと呼ばれるようになった。1817年には近隣の水辺にドックを造り、スタテン島とマンハッタンの間で蒸気船の渡し船を毎日運航した。また1817年に彼の提案で、ニューヨークは全ての奴隷を解放する法を制定し、1827年7月4日に発効することになった。
1816年の大統領選挙で、ジェームズ・モンローの副大統領候補として選ばれ、1817年3月4日から1825年3月4日まで副大統領を務めた。19世紀の副大統領で、二期を全うしたのは彼だけである。就任時、1814年の落馬事故で健康を損ね、戦費の未返済のために財政も苦しく、アルコール依存に陥っていた。1820年4月には副大統領のまま州知事の座を現職のデウィット・クリントンと争ったが敗れた。1821年にはニューヨーク州憲法制定会議の議長を務めた。副大統領を退任した3か月後、トンプキンズビルで50歳で死去し、ニューヨーク市のセント・マークス墓地に埋葬された。トンプキンズ郡、マンハッタンのトンプキンズ・スクエア・パークなどは、彼にちなんで命名されている。
同じ年に亡くなった人物
- フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵) (1825年没)
- ホセ・ベルナルド・デ・タグレ (1825年没)
- ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク (1825年没)
- ジャン・パウル (1825年没)
- ピエール・シャルル・ランファン (1825年没)
同じ地域に関係する人物
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- ダグラス・トランブル (2022年没)
- ルイス・ボス (1912年没)
- エルンスト・トラー (1939年没)
- ジョン・アンドレ (1780年没)