HISTORICAL PERSON · 1825年没

アンリ・ド・サン=シモン

フランスの社会主義思想家。産業の担い手が社会を導くと説き、その説は弟子のコントによる実証主義社会学へと受け継がれた。

生涯
1825年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(パリ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

サン=シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワは、フランスの社会主義思想家であり、事業家である。1760年10月17日に生まれ、1825年5月19日に没した。テクノクラートからは、テクノクラシーの父としても知られ、晩年は新しいキリスト教を提唱した。

シャルルマーニュの血統を引くという高位の貴族の末裔としてパリに生まれた。『回想録』を著した公爵サン=シモンは遠縁にあたる。父はサンドリクール侯爵で、母は父の従妹にあたり、王弟妃の女官を務めた。若いころから野心にあふれ、従者に毎朝「伯爵様、あなたには大きな仕事があることをお忘れなく」と言って起こさせたという。初期の構想には、大西洋と太平洋を運河でつなぐ計画や、マドリードから海まで運河を引く計画があり、このことからも、関心が主として産業や商業の問題に向けられていたことがわかる。

宮廷人として必要な教育と軍事教練を受け、16歳でラファイエットの義勇軍の士官としてアメリカ独立戦争に参加した。ヨークタウンの包囲にも加わり、合衆国で産業階級が勃興する様子に感銘を受けた。終戦間際にイギリス軍に捕らえられたが、釈放されて帰国し、退役してから工学と水利学を学んだ。1789年に革命が始まると、自由、平等、友愛の理想をいち早く支持した。初期は大きな産業組織を作って科学的な改良の学派を創ろうとし、その資金を得るため土地投機を行った。しかし政情が不安定になって金融活動を続けられなくなり、命も危うくなった。恐怖政治の時期には反革命の嫌疑で投獄されたが、1794年に釈放された。貨幣価値の下落で非常に裕福になったものの、その財産は事業の相棒に盗まれた。これを機に、政治の研究に専念しようと決心した。

40歳近くになると、物の見方を広げ明確にするために、多様な学習や実験を試み、1801年には不幸な結婚もした。1802年には『ジュネーヴ人の手紙』を著している。晩年は貧困に苦しみ、1823年に自殺を企てている。『産業者の教理問答』を1823年から1824年にかけて、『新キリスト教』を1825年に著した。

サン=シモンの教義の核心は、富の生産を促進するのが社会の重要な任務で、産業階級は貴族と僧侶よりも重要な要素だということである。一国の行政は市民の才能に任されるべきで、財産権は政治憲法よりも社会の基礎を作る上で重要であるとする。「50人の物理学者・科学者・技師・勤労者・船主・商人・職工の不慮の死は取り返しがつかないが、50人の王子・廷臣・大臣・高位の僧侶の空位は容易に満たせる」と公言し、1819年に告訴された。この生産階級の重視が、彼を「テクノクラートの予言者」と評価させる。ただし、資本家と労働者は等しく産業階級であり、その対立は問題とされない。労働者は自ら自由を獲得すべき存在ではなく、使用者に保護されるべき存在だった。

1819年以降は、レッシングの『人類の教育』に感化され、キリスト教の道徳を産業社会に適用する方策を夢想した。新しいキリスト教は礼拝や形式から脱却し、人間は互いに兄弟として行動し、富者は貧者を救済すべきだとする人道主義へ傾いた。生前は認められなかったが、その説は、弟子たちによってサン=シモン主義という半ば宗教的な教説となり、世界の社会思想に影響を与えた。社会研究の態度は高弟コントに受け継がれ、実証主義社会学として結実した。皇帝ナポレオン3世も信奉者で、第二帝政では産業重視政策が取られた。

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