伝記
ジョージ・ゴードン・バイロンは、1788年1月22日に生まれ、1824年4月19日に没したイングランドの詩人であり貴族である。第6代バイロン男爵で、単にバイロン卿といえばこの人物を指すことがほとんどである。ゲーテが「今世紀最大の天才」と賞賛した19世紀ロマン派の詩人で、情熱家であり、ギリシア独立戦争に身を投じて熱病にかかり、没した。
ジョン・バイロン大尉と2番目の妻キャサリン・ゴードンの間にロンドンで生まれ、2歳のときスコットランドのアバディーンに移った。1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳で第6代男爵となり、土地と館ニューステッド・アビーを相続するため、ノッティンガムへ移った。翌年ロンドンに出て、1801年から1805年までハーロー校で過ごし、1805年にケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を送った。詩集を1807年に出版したが、翌年に非難され、1809年に風刺詩を出版して鬱憤を晴らした。1808年にケンブリッジを去り、1809年から1811年まではポルトガル、スペイン、ギリシャなどを旅した。1810年5月にはダーダネルス海峡をヨーロッパからアジアへ泳いで渡ったという。帰国後、1812年に上院でラッダイト運動の弾圧に抗議する演説をして名を挙げ、同じ年、旅の成果である『チャイルド・ハロルドの遍歴』の第1・2巻を出版した。生の倦怠と憧憬を盛った詩風と異国情緒が時代の好みに合い、大評判となった。
社交界の寵児となり、数多くの女性との恋愛を重ねた。1812年にはキャロライン・ラムとつきあったがすぐに破局し、その後も彼女はつきまとい続けて、バイロンは骸骨のようだと述べた。異母姉オーガスタ・リーとも関係を結んだ。1815年1月に、キャロラインの従姉妹アナベラ・ミルバンクと結婚し、12月に娘エイダ・ラブレスが生まれた。エイダは世界最初のプログラマーとされる。しかし翌年1月、アナベラは娘を連れて彼のもとを去り、4月に離婚証書に署名した。乱れた生活が指弾を受け、イギリスを去り、スイスのジュネーヴでシェリーに会い、ともにスイス各地を巡った。その後、ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァで退廃した生活を続けた。ヴェネツィアでは既婚のマリアンナ・セガティや、読み書きのできない22歳のマルガリータ・コーニと関係をもち、コーニとは同居したが、しばしば争い、彼が出て行けと言い放つと彼女は運河に身を投げた。この時期の代表作が、冷笑と機知に満ちた『ドン・ジュアン』(1819年から1824年)で、「事実は小説よりも奇なり」という言葉は現代でも使われる。
速筆でも知られ、詩集『ララ』は舞踏会から帰宅して衣服を換える間に書き、詩劇『海賊』は4日間、『アバドスの花嫁』は10日間で書いたという。動物好きで、愛猫5匹に加え、馬や犬、猿、鳥を飼っていたといわれる。政治的にはホイッグ党の支持者で、トーリー党の外交政策を批判した。1823年にギリシャ暫定政府代表の訪問を受けると、2年前に始まったギリシャ独立戦争に身を投じることを決意した。翌1824年1月にメソロンギに上陸し、レパントの要塞を攻撃する計画を立てたが、熱病によって同地で没した。36年の生涯だった。いわゆるバイロニズムは、当時の偽善と偏見を嘲罵する、イギリス・ロマン主義を代表する作風で、ロシアを含むヨーロッパ諸国の文学に影響を与えた。日本でも明治以来、最もよく知られたイギリスの詩人の一人である。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ (1824年没)
- ジェームズ・パーキンソン (1824年没)
- アグスティン・デ・ベタンクル (1824年没)
- ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス (1824年没)
- ルイーゼ・ツー・シュトルベルク=ゲーデルン (1824年没)
同じ地域に関係する人物
- ベニゼロス・ルフォス (1868年没)
- Arrhichion (紀元前563)
- アイアキデス (紀元前313年没)
- Matilde Serao (1927年没)
- ピュロン (紀元前270年代没)