HISTORICAL PERSON · 1822年没

ウィリアム・ハーシェル

ドイツ出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。1781年に天王星を発見して名を上げ、国王付天文官に任じられた。土星の衛星エンケラドゥスとミマスも発見し、赤外線放射の発見でも知られる。

生涯
1822年没
死亡地
イギリス連邦(スラウ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ハノーファー)
出典
世界地図
イギリス連邦(スラウ)

伝記

サー・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルは、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者であり、音楽家、望遠鏡製作者である。1738年11月15日に生まれ、1822年8月25日に没した。ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルである。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる。

ハノーファーの家の10人兄弟姉妹の4番目として生まれた。1753年、父イザークと長兄が勤めていたハノーファー近衛連隊の楽団に、オーボエ奏者として入団した。当時イギリスとハノーファー選帝侯国は、ジョージ2世のもとで同君連合を組んでいた。1755年に楽団がイギリスへの赴任を命じられ、短期間で英語を習得し、1757年にイギリスへ渡って、名をフレデリック・ウィリアム・ハーシェルと名乗るようになった。イギリスでは音楽教師、楽団長として成功した。ヴァイオリンやオーボエ、のちにはオルガンも演奏し、24曲の交響曲や協奏曲、教会音楽を作曲したが、今日では多くが忘れられている。バースのオクタゴン・チャペルのオルガン奏者となり、市民音楽会の指揮者も務めた。この頃、妹のカロラインもイギリスに移り、ともに暮らした。

音楽に携わるうちに数学に興味を抱き、さらに天文学も学ぶようになった。1773年頃から本格的に取り組み、自ら望遠鏡を作り始めた。月の山の高さを測ったり、二重星のカタログを編んだりした。転機は1781年3月13日、バースの自宅で天王星を発見したことである。これで一躍有名人となり、天文学の研究に専念するようになった。国王ジョージ3世を称えて新惑星を「ジョージの星」と命名し、名声は一層高まった。この名前は定着せず、天王星の名が定まる以前は、特にフランスで、もっぱらハーシェルと呼ばれたという。同年、コプリ・メダルを受賞して王立協会会員に推薦された。1782年に国王付天文官に任命され、兄妹はダチェットに移った。1783年、カロラインに1台の望遠鏡を与えたのをきっかけに、彼女も彗星の発見などをなした。カロラインは兄の助手として、観測の際に記録係を務めた。1786年にスラウに移り、生涯をそこで過ごした。1788年には未亡人メアリー・ピットと結婚し、1792年に息子ジョンが生まれた。

生涯に400台以上の望遠鏡を製作した。最大で最も有名なのは、焦点距離40フィート、口径126センチの反射望遠鏡で、1789年8月28日にその最初の観測で土星の衛星エンケラドゥスを発見した。1か月も経たないうちにミマスも発見した。ただしこの大望遠鏡は扱いにくく、観測の多くは、焦点距離20フィートの望遠鏡で行われた。口径の一部を覆い隠すと、非常に高い角分解能が得られると発見し、この原理は今日の干渉法の基礎となっている。のちに天王星の衛星チタニアとオベロンも見つけた。恒星の固有運動の研究から、太陽系が宇宙空間を運動していることに初めて気づき、天の川が円盤状に分布していることも明らかにした。夜空を600以上の区画に分けて星の数と明るさを数える、地道な作業による成果である。1800年頃には、太陽光をプリズムに通し、赤色光を越えた位置に置いた温度計の温度が上がることから、目に見えない光があると結論づけ、赤外線放射を発見した。

1816年に摂政皇太子からナイトに叙せられ、1820年にロンドン天文学会を共同で設立した。この学会は1830年に王立天文学会となった。スラウの自宅で没し、アプトンの教会近くに埋葬された。息子のジョン・ハーシェルも天文学者として名を成した。

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