伝記
天武天皇は、日本の第40代天皇である。生年は不詳で、686年10月1日(朱鳥元年9月9日)に崩じた。在位は673年から686年までで、壬申の乱に勝って即位した。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子で、中大兄皇子(のちの天智天皇)と間人皇女の同母の弟にあたる。即位前の名は大海人皇子である。幼少期に養育を受けた凡海氏にちなむ名と推測されている。生年について『日本書紀』は記しておらず、中世の系図類の没年65歳から計算すると622年か623年になるが、これは天智天皇の生年より前になるため、56歳の写し間違いとして631年生まれとする説も古くからあった。結局、生年は不明とされる。
645年に中大兄皇子が乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少で、おそらく陰謀には関わらなかった。のち孝徳天皇の時代には皇弟と呼ばれた。中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とし、百済復興のための出兵で斉明天皇と中大兄皇子が筑紫へ移ると、妻を連れて従った。664年には中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制などを群臣に宣べ伝えた。668年に中大兄皇子が即位すると東宮となったと『日本書紀』は記すが、皇位継承者であったかどうかには異論もある。ただし、非常に重要な地位にあったことは認められている。671年に天智天皇が大友皇子を太政大臣に任じると、大海人皇子は朝廷から疎外されたようである。
同年10月、病の深まった天智天皇に呼ばれて後事を託されそうになった大海人皇子は、蘇我安麻呂の警告を受け、皇后の倭姫王の即位と大友皇子の執政を勧めた。自らは出家して即日剃髪し、吉野に下った。天智天皇が崩じた翌672年6月、挙兵を決意して美濃へ使者を送り、自らもわずかな供を連れて向かった。不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を断ち、東国から数万の軍勢を不破に集めた。大和では大伴吹負が挙兵して飛鳥を占領し、近江方面の軍は琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破って、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
戦後処理を終えた大海人皇子は飛鳥の岡本宮に入り、673年に即位した。鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)を皇后に立て、一人の大臣も置かず、皇族に要職を分掌させる皇親政治を行った。八色の姓で氏姓制度を再編し、律令制の導入に向けて改革を進め、飛鳥浄御原令の制定、新しい都の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂を始めた。道教に関心を寄せ、神道を整え、仏教を保護して国家仏教を推進した。伊勢神宮には大来皇女を斎王として仕えさせ、675年には最初の肉食禁止令を出した。679年には吉野で、天武の子4人と天智の子2人が協力を誓う吉野の盟約を結んだ。681年には律令を定める計画を発し、草壁皇子を皇太子に立てた。683年からは有能な大津皇子にも朝政をとらせた。
686年5月に病を得て、占いで草薙剣の祟りと出たため、剣を熱田社に送り置いた。仏教の力にも頼ったが快癒せず、7月に政治を皇后と皇太子に委ね、元号を朱鳥と定めて宮殿を飛鳥浄御原宮と命名した。いずれも病気平癒を願った措置とみられている。9月9日に崩じ、その直後に大津皇子が謀反の容疑で捕らえられて処刑された。688年に大内陵に葬られ、689年に草壁皇子が亡くなると皇后が即位して持統天皇となった。陵は檜隈大内陵に治定され、持統天皇との合葬陵である。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード (686年)
- ヨハネス5世 (ローマ教皇) (686年没)
- エドリック (686年)
- Audoin (686年)
- 元暁 (686年没)
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