HISTORICAL PERSON · 1819年没

ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル

プロイセン王国の陸軍元帥。1813年の解放戦争でプロイセン軍総司令官となり、ライプツィヒの戦いの功績で大鉄十字星章を授与。ウェリントン公とワーテルローでナポレオンを破り、前進元帥と渾名された。

生涯
1819年没
死亡地
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県 / クロビェロヴィツェ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ロストック)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県)

伝記

ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルは、プロイセン王国の軍人で、陸軍元帥である。ナポレオン戦争後半のプロイセン軍総司令官となり、ウェリントン公とともにワーテルローの戦いでナポレオンを破った。攻撃的な性格から「前進元帥」と渾名された。1742年12月16日、当時スウェーデン領だったロストックに生まれた。14歳で父や兄弟と同様にスウェーデン軍に入隊し、1760年からのポメラニアでの戦役に従軍した。この戦役でプロイセン軍の捕虜となり、そのままプロイセン軍に入隊した。七年戦争には軽騎兵隊の士官として従軍し、勇敢な行いで多くの戦功を立てた。

しかし情熱が時に事を過激にし、ある僧侶の模擬処刑が、1772年のポーランド反乱を支援したという疑惑を招いた。このため少佐への昇進を見送られ、無礼な辞職の手紙を送ると、1773年にフリードリヒ2世は、これを承諾した。その後、農業を始めて約15年を田園で過ごしたが、フリードリヒ2世の死後に軍務へ復帰し、少佐として赤色軽騎兵連隊の指揮官になった。1789年にはプロイセン軍最高の栄誉であるプール・ル・メリット勲章を授与された。1792年にフランス革命戦争が勃発すると、騎兵指揮官として有能さを示し、1794年に大佐、さらにキールワイラーの戦いの戦功で同年中に少将へ昇進した。1801年に中将となり、軍部内でも重きをなした。

1806年、第四次対仏大同盟のもと、師団長として作戦に従事した。10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍は大敗したが、ブリュッヘルはシャルンホルストと合流し、比較的整然と撤退して抵抗を続け、11月7日にリューベック近郊のラトカウで降伏した。降伏文書に「弾薬欠乏につき」と書き入れて名誉を守った。1807年のティルジットの和約で、プロイセンは国土の半分を割譲した。この屈辱に愛国的風潮が高まり、反ナポレオンの急先鋒だったブリュッヘルは、愛国派のリーダーとみなされるようになった。1809年に騎兵大将へ昇進したが、1812年にロシアとの同盟を主張し、フランスとの同盟を決めた国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世と対立して、ポンメルン軍司令官を解任された。

1813年にナポレオンのロシア戦役が失敗に終わると、軍司令官に復帰し、プロイセン軍総司令官としてシャルンホルストとともに指揮した。シャルンホルストの死後は、グナイゼナウが参謀総長となった。8月26日のカッツバッハの戦いでマクドナルド元帥のフランス軍を撃破し、10月16日に陸軍元帥に叙せられた。16日から19日のライプツィヒの戦いで同盟軍がナポレオンを破ると、大鉄十字星章を授与された。この勲章を与えられたのは、のちのヒンデンブルクと彼だけである。1814年3月31日にはパリへ入城し、ナポレオンは退位してエルバ島に流された。ブリュッヘルはナポレオンは危険であり、銃殺すべきだと主張したという。6月にワールシュタット大公の爵位を受けた。

1815年にナポレオンがエルバ島から脱出すると、再び呼び戻され、ベルギーのプロイセン軍総司令官となった。6月16日のリニーの戦いで敗れて負傷し、一時指揮をグナイゼナウにゆだねたが、病床から起き上がり、ライン方面への後退を却下した。プロイセン軍は強行軍で西へ向かい、6月18日の夕方にワーテルローに到着してフランス軍の右翼を攻撃し、勝利に貢献した。1819年9月12日、77歳で没した。粗野で無鉄砲だったが、親分肌で度量が広く、優秀なスタッフの意見を取り入れる賢明さがあった。

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