伝記
文武王は、新羅の第30代の王(在位661年〜681年)である。626年に生まれ、姓は金、諱は法敏といった。先代の武烈王の長子で、母は金庾信の妹にあたる文明夫人、王妃は金善品の娘の慈儀王后である。在位中に高句麗を滅ぼし、唐の勢力を朝鮮半島から退けて、半島の統一を果たした王とされる。
王位に就く前の650年6月、法敏は父の金春秋が築いた唐との関係のもと、百済との戦勝報告と、真徳女王が唐を称えて作った五言太平頌を献上するために唐を訪れた。高宗は大いに喜び、法敏は太府卿の職を授かって帰国した。父が武烈王として即位した後の654年には兵部令となり、次いで太子に立てられた。660年7月の対百済戦役では、金庾信らとともに5万の兵を率いて蘇定方の唐軍に合流し、大きな功をあげた。同年10月には尓礼城を陥落させ、残る20余城の百済軍も降伏して、百済の旧地はひとまず平定された。
661年、高句麗との戦いのさなかに父が死去したため帰国して即位した。663年には鬼室福信らが扶余豊璋を迎えて百済復興の反乱を起こし、百済と倭国の連合が唐と新羅の連合と戦った白村江の戦いで倭国の水軍は壊滅し、百済再興の望みは絶たれた。666年4月には唐に高句麗討伐の出兵を求め、668年に新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、9月21日に高句麗を滅ぼした。戦功著しい金庾信には、従来の最高官位である大角干の上に太大角干の位を設けて与え、貴族すべてに官位一等の昇進を与えた。一方で、個々の恩賞は中央貴族の私兵層には及ばず、活躍した地方豪族や投降した百済・高句麗の官や将を積極的に取り立てて、王の直接支配が及ぶ軍事力を育てた。これは武烈王の論功行賞に倣ったもので、王権の拡大につながったとされる。
しかし、両国を滅ぼしても半島統一がすぐに成ったわけではない。唐は百済の故地に熊津都督府、高句麗の故地に安東都護府を置き、遺臣を用いて統治しようとし、新羅自体も鶏林州都督府とされて、文武王は鶏林州大都督に任じられていた。これに対抗して文武王は、亡命してきた高句麗の宝蔵王の庶子、安勝を金馬渚に住まわせ、670年8月に高句麗王に封じ、674年9月には報徳王として再封した。唐からは叱責され、671年から旧百済領を次々に奪って唐・新羅戦争となり、674年1月には高宗から官爵を削られ、王弟の金仁問を王に代えようとされた。文武王は675年2月に謝罪使を送って一時的な和平を得たが、その後も戦闘は続き、676年11月に伎伐浦で唐軍に大打撃を与えた。唐は熊津都督府と安東都護府を遼東に引き上げ、半島から勢力を退けた。内政では、674年に外位を廃止して身分制度を京位に一本化し、百済からの帰属者も旧来の官制の序列に従って新羅の官制に組み入れた。680年には妹を安勝に嫁がせ、新羅と高句麗の王家の結合を図った。678年には北原小京、680年には金官小京を置き、674年には宮城の近くに月池(のちの雁鴨池)を造営し、四天王寺を建立させ、676年には義湘に浮石寺を創建させた。
681年に死去し、文武王と諡された。かねての遺詔により新羅で初めて火葬され、骨壺は東の海辺の大石の上に葬られた。これが海中王陵で、この大石は大王岩と呼ばれる。俗伝では王は護国の大龍に化身したといい、その地には感恩寺が建てられ、神文王の2年(682年)に完成したと伝わる。682年に建てられた文武王陵碑には、王が匈奴の末裔と記されている。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・フライラ (681年没)
- ウンム・クルスーム・ビント・アリー (681年)
- ジャヤーヴァルマン1世 (681年)
- ウンム・サラマ (681年)
- アガト (ローマ教皇) (681年没)