伝記
ヒルダ(ウィットビーのヒルダ、ヒルドとも)は、7世紀のブリテン島の初期教会の聖人である。614年ごろに生まれ、680年11月17日に没した。ウィットビーに修道院を創設して初代の女子修道院長となり、その修道院は664年のウィットビー教会会議の会場に選ばれた。イングランドのキリスト教化で重要な人物で、いくつかの女子修道院で院長を務め、王たちが助言を求めて訪れるほどの知恵で知られた。生涯の情報の源は、731年にベーダが著した『イングランド教会史』である。
ベーダによれば、ヒルダは614年、デイラの王家に生まれた。デイラ王エドウィンの甥ヘレリックと妻ブレグスウィスの次女である。ヒルダがまだ乳児のころ、父はエルメト王国の宮廷に亡命中に毒殺された。616年、エドウィンはベルニキアのエゼルフリスに勝ってノーサンブリアを建て、王位に就いた。ヒルダはエドウィンの宮廷で育てられた。625年、妻を亡くしていたエドウィンは、キリスト教徒であるケントの王女エゼルブルフと結婚した。627年の復活祭の日、4月12日に、エドウィンは宮廷の者たちとともに洗礼を受けた。その中には13歳のヒルダもいた。
633年、ノーサンブリアは隣国の異教徒のマーシア王に攻め込まれ、エドウィンは戦死した。パウリヌスは、ヒルダと王妃エゼルブルフ、その供の者たちを、王妃の故郷ケントへ連れていった。王妃はリミンジに女子修道院を創設しており、ヒルダはその院長となった王妃のもとにとどまったと考えられている。姉ヘレスウィスはのちにガリアのシェル修道院の修道女となり、ヒルダも夫を亡くしたその姉のもとへ加わろうとしていた。ところが33歳のとき、ヒルダはそれをやめ、リンディスファーン司教アイダンの呼びかけに応えてノーサンブリアに戻り、修道女として暮らすことにした。
最初の修道院は、ウィア川の北岸にあったことのほかは分かっていない。そこで数人の仲間とともに、アイダンがアイオナから伝えたケルト系の修道制の伝統を学んだ。1年後、アイダンはヒルダをハートルプール修道院の2代目の院長に任じた。657年、ヒルダはストレオネシャルフ、のちのウィットビー修道院の初代院長となり、没するまでそこにとどまった。考古学の成果によれば、この修道院はケルト式で、修道士たちは2、3人用の小さな家に住み、男女は別々に暮らして礼拝だけを教会で共にした。ベーダによれば、ヒルダの修道院では修道生活の本来の理想が厳しく守られ、財産はすべて共有され、平和と慈愛の徳が実践された。全員が聖書を学び、善行を積まなければならなかった。この修道院からは、のちに5人の司教が出た。そのうちの二人、ベヴァリーのヨハネとヨーク司教のウィルフリッドは列聖された。
ベーダはヒルダを、精力にあふれ、行政と教育に巧みな女性として描く。地主として、牧畜や農耕などに多くの人を雇っていた。知恵の評判が高く、王や諸侯が助言を求めた。しかし庶民にも心を配り、修道院の牧夫だったカドモンもその一人である。カドモンは夢に促されて神を讃える詩を歌うようになり、ヒルダはその才能を見抜き、伸ばすよう励ました。ベーダは、「彼女を知る者は皆、その格別な信心と恵みのゆえに、彼女を母と呼んだ」と記す。ウィットビー修道院の名声は、ノーサンブリア王オスウィがここを、王国で最初の教会会議の会場に選んだことにも表れている。出席者の大半は、ヒルダも含めて、ローマで用いられる復活祭の算出法を採るという王の決定を受け入れた。これを認めなかったリンディスファーンの修道士たちは、アイオナへ、のちにアイルランドへ去った。
同じ年に亡くなった人物
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- エブロイン (680年代没)
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