伝記
アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスは、共和政初期ローマの政治家・軍人である。生年は不詳で、紀元前449年に没した。紀元前471年に執政官を務め、紀元前451年には十二表法を作った十人委員会の一人となり、その主導的な立場にあった人物として知られる。クラウディウス氏族は、祖父にあたるサビニ人のアッティウス・クラウススが対ローマ政策で孤立し、紀元前504年に宥和派を連れてローマへ亡命したことに始まる。
紀元前471年、護民官ウォレロ・プブリリウスは、護民官の選出をトリブス民会に移す法案を提出した。成立すれば貴族はクリエンテスを使って選挙に影響を及ぼせなくなるため、審議は紛糾した。貴族側は対抗して、平民を敵視する父の血を引くアッピウスを執政官に選び、同僚はティトゥス・クィンクティウスだった。護民官ガイウス・ラエトリウスが貴族に退去を命じると、アッピウスはこれを拒み、護民官にリクトルを差し向けた。群衆がフォルムに押し寄せたが、クィンクティウスが仲裁して彼を退場させ、元老院は団結を優先して譲歩を決めた。アッピウスはこれを重大な譲歩だと訴えたが、プブリリウス法は成立した。続くウォルスキ族との戦いで指揮を任された彼は、怒りから兵に過酷な命令を課したが、兵は従わず、本陣を奪われかけるまで戦おうとしなかった。奇襲で軍が崩れると、持ち場を放棄した百人隊長を斬首し、全軍に十分の一刑を科したという。翌紀元前470年には土地分配法に反対して護民官に告発されたが、不遜な態度を変えず、護民官は裁判を中断した。その後、急死したと伝えられる。
一方、紀元前451年にもアッピウスが現れる。ローマでは古い法に替わる成文法を平民と貴族が平等に定めることが論じられ、紀元前454年にはアテナイへ使節団が送られていた。紀元前452年の帰国後、法制定のための十人委員会が執政官に代わって国政を担うことになり、上訴は認められなかった。この年、執政官に選ばれていたアッピウスもその一員となった。かつての平民の敵は平民を擁護する者に変わり、圧倒的な人気で委員会の主導権を握った。委員会は円滑かつ公正に運営されたといい、10枚の表の法案を公開して意見を募り、ケントゥリア民会で可決させた。さらに2枚の追加が必要とされ、人々は翌年も続くことを望んだ。
ところが第二次の委員会では、選挙管理の役目を逆手に取ったアッピウスがキンキナトゥスやバルバトゥスの兄弟らを排除し、無名の人々を周囲に置いて指導的立場に収まった。リクトルはファスケスに斧をつけて市民を威嚇し、2枚の表が加わって十二表法が完成した後も、委員は辞任しなかった。紀元前449年にサビニ人が略奪を繰り返しても居座り、ウァレリウスらの反対を退けた。アッピウスは、元百人隊長ウェルギニウスの娘で、元護民官イキリウスの許嫁であるウェルギニアに横恋慕し、合法的に奴隷にしようと図った。ウェルギニウスは娘の貞節を守るためにその胸を刺して逃れ、兵とともにローマへ戻った。平民は聖山に退去し、元老院は解散を決め、アッピウスらも辞任した。護民官と上訴権は復活し、ウァレリウスとホラティウスが執政官となった。
ウェルギニウスはアッピウスを告発した。誰も弁護せず、逮捕されそうになった彼は「上訴する」と叫んだが、牢につながれた。クラウディウス氏族の嘆願もむなしく、人々の支持はウェルギニウスにあり、アッピウスは公判前に自決したとされる。ただし、これらの話は信頼できず、貴族のクラウディウス氏を傲慢に描くために後世に作られた可能性が高いと指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- ゼカリヤ (預言者) (紀元前 449年)
同じ地域に関係する人物
- アンドレア・カミッレーリ (2019年没)
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