伝記
レオデガル(フランス語名レジェ)は、メロヴィング朝期のオータン司教で、殉教者として聖人とされる人物である。生年は615年ごろまたは616年ごろ、没年は678年または679年とされる。当時のフランク王国は分王国が並び立って覇権を争う混乱のなかにあり、レオデガルは最大の権力者だったネウストリア宮宰エブロインに対する有力な反対者となった。
父はブルグンディアの上級貴族ボディロン、母は聖シグラダで、聖ワリヌスの兄弟にあたる。父の没時には10歳だったともいわれ、ポワティエ司教デジデリウスのもとに送られた。デジデリウスは母方の叔父で、レオデガルはクロタール2世の時代のパリで育ち、宮廷で高度な教育を受けたのち、ポワティエの大聖堂付属の学校で学んだ。20歳ごろに助祭長となり、やがて司祭になった。650年ごろ、ポワティエ近郊の修道院に入り、まもなく大修道院長となって、聖ベネディクトの戒律の導入などの改革に着手した。
656年ごろ、クローヴィス2世の寡婦バルティルドに呼ばれてネウストリアの宮廷に入り、その子供たちを教育するかたわら、政治にも関わるようになった。659年にはオータン司教に任じられ、ここでも改革を率いた。661年に評議会を開き、マニ教を批判してアタナシオス信条を承認させた。世俗化した聖職者や教会を正し、町に三つの洗礼堂を建て、サン=ナゼールの教会を広げ、貧者のための収容所をつくり、ローマ時代以来の城壁を含む公共の建物を修復した。こうして権威を高め、ブルグンディアのフランク人貴族の指導者とみなされるようになった。
673年にクロタール3世が死ぬと、エブロインは弟テウデリクを擁立したが、レオデガルら聖職者は兄のキルデリク2世を推して成功した。エブロインはリュクスイユの修道院に送られ、テウデリクはサン=ドニに送られた。レオデガルは宮廷にとどまって若い王を補佐したが、聖人伝によれば、王がいとこと結婚することに反対したため、自らもリュクスイユへ送られた。別の説明では、王は675年の復活祭の教会会議でレオデガルを退け、その背景には王の義母らの思惑があったという。いずれにせよ、アウストラシアの貴族にも影響力を持つレオデガルは、政敵にとって極めて危険な人物であった。ほどなく王は不満を抱く者に暗殺され、テウデリク3世が即位し、レウデシウスが宮宰となった。修道院から出たエブロインとレオデガルは先を争って宮廷に戻ろうとしたが、エブロインは陰謀でレウデシウスを殺して宮宰に返り咲いた。
675年ごろ、エブロインに扇動されたシャンパーニュの公が、オータンを攻めてレオデガルを捕らえた。町は降伏し、レオデガルは目をえぐられ、舌を切られたと伝えられる。聖人伝には、市民を救うために自ら降ったとの記述もある。679年、テウデリク3世はエブロインの讒言により、レオデガルにキルデリク2世殺しの罪を着せた。裁判で聖職の位を落とされてフェカンへ追放されることになったが、その途中、アルトワ近くのサルシングの森へ引き出され、エブロインの命を受けた兵に斬首された。弟ワリヌスもエブロインに殺されている。伝承では、傷を負ったレオデガルは飢えのなかで九日間生き延びて近親者に見つけられ、二年間フェカンの女子修道院に保護されて言葉を取り戻したともされるが、口の傷は浅かったのではないかとも考えられている。レオデガルは殉教者・聖人とされ、681年には司教たちの会議が聖人と宣言したという。
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