HISTORICAL PERSON · 1813年没

クリストフ・マルティン・ヴィーラント

ドイツの詩人・翻訳家・作家。ドイツ古典主義時代を代表する一人で、ゲーテやシラーと並ぶ大きな影響力を持った。

生涯
1813年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / ヴァイマル)
出生地
ドイツ連邦共和国(Oberholzheim)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

クリストフ・マルティン・ヴィーラントは、1733年9月5日に生まれ、1813年1月20日に没したドイツの詩人であり、翻訳家、作家である。ゲーテやシラーなどと並び、ドイツ古典主義時代に重要で大きな影響力を持った人物の一人である。

ドイツ南部のビーベラハの北25キロにあるオーバーホルツハイムという村に、牧師の子として生まれた。幼い頃から厳格な教育を受け、古典語を習得した。1747年からはマクデブルク近郊の全寮制の学校クロスターベルゲン校に入り、フランス語を覚えて、ヴォルテールやフォントネル、ベールらの最新のフランスの作品や、クロプシュトックらのドイツの作品に親しんだ。1749年にはエルフルト大学で哲学と『ドン・キホーテ』を学び、後年大きな影響を受けた。1750年に帰郷して、従姉妹のゾフィー・フォン・グッターマンと恋に落ちて婚約し、これを基にキリスト教的な詩を残した。しかしゾフィーは1753年に別の人物と結婚し、婚約は解消された。

1752年からテュービンゲン大学で文学、法学、歴史を学び、次いでチューリッヒで批評家ボードマーのもとで文学を研究し、敬虔主義的な詩を残した。しかしシェイクスピアの研究や、医師で哲学者のツィンマーマンとの交流もあって、強い宗教的な志向を持つボードマーから離れた。その後数年は家庭教師として暮らした。1760年にビーベラハへ帰り、市参事会員や官房主事を務めた。かつての婚約者夫妻と和解し、シュターディオン伯爵の居城ヴァルトハウゼンの館に出入りするようになった。伯爵は啓蒙思想の持ち主で、そこで集う上流階級の人々との交流から社会観や機知、社交性を身につけ、宗教的で神秘的な傾向は影を潜めて、生を享楽する快楽至上主義へ変わった。

より重要なのは、1762年から1767年にシェイクスピアの散文の翻訳を行ったことと、フィールディングやスターン、スウィフトらイギリス市民文学に触れて、当時ドイツでもフランスでも軽視されていた小説に手をつけようとしたことである。1764年の『ロザルヴァのドン・シルヴィオ』は『ドン・キホーテ』を模倣した作品で、妖精物語に夢中になった主人公が旅に出るが、自分の空想が誤りだったと悟る。1766年から1767年に書いた代表作『アーガトン物語』は、理想主義に心酔する主人公が、理想と快楽の間で揺れ動き、諦念の域に達する話で、のちのドイツ・ロマン派に大きな影響を与えた。1768年の韻文物語『ムザーリオン』には、若きゲーテも魅了されたという。1765年にドロテア・フォン・ヒレンブラントと結婚し、結婚生活はとても幸せだったと伝わる。1769年にエルフルト大学の哲学教授となり、1772年に啓蒙主義的政治を絶賛する『黄金の鏡』を執筆した。これがヴァイマル公妃アンナ・アマーリアの目に留まり、2人の息子の教育係として招かれ、役目は1775年に終わったが、以後もヴァイマルの宮廷に仕えた。

ヴァイマルで雑誌『ドイツのメルクール』を創刊し、ゲーテらの寄稿も得て高い評価を得た。1774年から1776年に連載された小説『アブデラの人々』は、偏狭な小市民的根性を持つ人々の町を風刺し、代表作の一つとなった。1780年発表の『オーベロン』は、騎士ヒューオンがバグダードの宮廷へ赴いて使命を果たし、美姫を伴って帰国する愛と冒険の物語で、ゲーテが絶賛した。1810年の『アリスティッポス』なども発表し、キケロやルキアノス、ホラティウスなどの古典の翻訳にも貢献した。1801年に妻と死別し、1813年に79年の生涯を閉じた。

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