伝記
淵蓋蘇文は、高句麗末期の大莫離支(宰相)・将軍である。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。594年の生まれとされ、666年(宝蔵王25年)に没した。唐の太宗とその子の高宗の侵攻に抵抗した人物で、朝鮮の歴史では評価が大きく分かれてきた。
姓は「淵」とも「泉」ともされる。『旧唐書』や『三国史記』などが「泉」と書くのは、唐の高祖李淵の名を避けて類似の意味の字で置き換えたからだという説がある。一方で、『日本書紀』に伊梨柯須彌や蓋金とも現れるように、漢字訳はもともと便宜的なもので、最初から「淵」と「泉」が並行して使われていた可能性もある。「淵(泉)」は水源を意味する高句麗語「いり」の訳、「蓋蘇文」は「かすみ」の音に当て字したものと考えられている。
高句麗の有力な淵氏の長男として生まれ、父の淵太祚は平原王と嬰陽王の時代に大莫離支を務め、祖父も宰相であったという。若い頃のことはほとんど知られておらず、西部の長官となって、唐から遼東を守るための千里長城の築造を監督したと伝えられる。642年に栄留王が唐との親善を図り、淵蓋蘇文ら軍人貴族の勢力を抑えようとすると、淵蓋蘇文は王と伊梨渠世斯ら保守派の貴族約180人を殺したとされる。別の伝えは、王が彼を除く謀議をめぐらせたのを知った彼が、東部の長官就任を祝う宴に反対派の百人ほどを招いて殺害し、王宮に押し入って王を殺したと語る。そして王の甥の宝蔵王を第28代の王に立て、自らは行政と軍事の権限を握る大莫離支に就いて政権を掌握した。この政変は、唐との宥和を主張する側と軍事的な対決を主張する側との長い権力闘争の頂点であり、彼は強硬派に属していた。伝統的な史家は権力欲を動機とみたが、現代の韓国の史家には、唐に従った王に代わって対唐姿勢を強めるためだったとみる者が多い。
安市城の城主は、淵蓋蘇文への権力集中を認めず抗議した。そこで淵蓋蘇文は軍を率いて安市城を攻めたが、長く攻めても落とせず、結局は双方が妥協し、城主は淵蓋蘇文を執政者として承認し、淵蓋蘇文は城主の職権を認めた。対外的には緊迫した情勢のなかで強硬策をとり、救援を求めて来た新羅の金春秋(のちの武烈王)を監禁し、新羅と唐を結ぶ交通路にあたる党項城を占領した。もっとも、権力を握った当初は唐に対して融和的な態度もみせ、643年に使者を唐に派遣して、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に迎えている。これは文化面の功績とされる一方、侵攻を避けられないと見て唐をなだめ、備えの時間を稼ぐ狙いだったと考える歴史家もいる。644年、新羅との和解を勧める唐の太宗の要求を拒むと、激怒した太宗は、君主を殺し民を虐げた罪を問うとして、645年に17万の大軍を率いて侵入した。しかし安市城主が60日余りにわたって防戦し、唐軍を撃退した。その後も唐は4回侵入したが、安市城主はいずれも阻んだという。
没年には諸説があり、『日本書紀』は天智天皇3年(664年)10月とする。淵蓋蘇文は息子たちに、魚と水のように仲良くし、爵位を争ってはならない、そうなれば必ず隣人に笑われる、と遺言した。長男は淵男生、次男は淵男建、三男は淵男産である。だがその心配は的中し、高句麗は唐と新羅に滅ぼされた。後世、朝鮮時代の歴史書は彼を暴君として描いたが、近代の民族主義的な歴史家の申采浩は、朝鮮史上最大の英雄と呼んだ。2006年から2007年には、韓国SBSが彼を主人公とした大河史劇『淵蓋蘇文』を放送している。
同じ年に亡くなった人物
- アーティカ・ビント・ザイド・アダウィーヤ (666年(推定))
- Lupus of Friuli (666年)
- Hujr ibn Adi (666年(推定))
- Muhammad ibn Maslamah (666年)