伝記
クローヴィス2世は、メロヴィング朝の5代目の国王で、ネウストリアとブルグントを治めたフランク王である。生年は633年、635年、637年などとされて定まらず、没年は657年もしくは658年とされる。父は王ダゴベルト1世、母は王妃ナンティルドで、アウストラシア王シギベルト3世は異母兄にあたる。
639年に父が死去すると、幼くしてネウストリア=ブルグントの王として即位した。即位時の年齢は4歳とされる。幼少のため、母ナンティルドが宮宰アエガとともに摂政として政務をとり、母が没する642年まで統治を担った。母の死後、王は世俗の有力者たちの影響下に置かれ、王権は彼らの手に移っていった。まずアエガが、その死後は宮宰となったエルキノアルドが実権を握った。ダゴベルト1世の母ベルテトルドの親戚にあたるエルキノアルドは、宮廷内で15年にわたって強い影響力を保ったとされる。王の居所はこの頃クリシーにあった。ブルグントの宮宰フラオカドが王を利用して政敵ウィレバドをオータンでの戦いにおびき出し、ウィレバドが討たれたという話も伝わる。また、657年にはアウストラシアの宮宰グリモアルドが捕らえられ、パリで処刑されたとされる。この間、王はほぼ在位の全期間を未成年のまま過ごしたことから、早くから実権を持たない「怠け者の王」の一人とみなされることが多い。
649年、王はアングロサクソン人の女奴隷だったバルティルドを妃に迎えた。彼女はヨークで買われ、エルキノアルドの家内奴隷としてフランクの地に連れてこられた人物で、王の関心を引いたという。二人のあいだには3人の男子が生まれた。652年生まれのクロタール3世はネウストリア=ブルグントの王となり、653年生まれのキルデリク2世はアウストラシア王となったのち兄の死後に全フランクの王となり、654年生まれのテウデリク3世は兄たちの跡を継いで最後には全フランクの王となった。3人とも父の死後に王位に就いたことになる。このほかクローヴィス3世が子だともいわれるが、父をテウデリク3世とも、クロタール3世ともする説があって出自は不明であり、メロヴィング家の人間ではなかった可能性さえあるため、正式な王に数えられないことも多い。
王は657年もしくは658年に、狂気に陥ったのち世を去ったとされる。歴史家アンリ・ピレンヌは、王が正気を失って死んだと述べている。遺体はサン=ドニ大聖堂に、父ダゴベルト1世のそばに葬られた。その墓は1264年に探し出された16の墓所のひとつで、のちにカペー家の系譜が前の王家から続くことを示す目的で整えられたという。1793年に墓が荒らされた際、横臥像だけが唯一の遺物として残った。なお、ジュミエージュの「腱を切られた者たち」の伝説によれば、王の2人の息子が聖地巡礼中の父に背いて敗れ、脚の腱を焼かれたとされる。しかし王は聖地へ赴いたことがなく、死去したときには息子たちが幼すぎたため、この伝説に歴史的な根拠はない。
王の死後は息子クロタール3世が即位し、王妃バルティルドが摂政となった。彼女はネウストリアを中心とする中央集権的な政策を試み、ブルグントの自立をはかった司教を排除したとされる。世俗の貴族と変わらない生活を送る司教に圧力をかけ、一方で司教の支配下にあった修道院を保護し重んじたことが、後の修道院の大領主化の制度的な起源になった。バルティルドは、クロタール3世が成年に達した662年、宮宰エブロインによって自ら建てたシェル修道院に追放され、そこで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- マリク・イブン・アシュタル (658年没)
- サモ (658年)
- Shepenupet II (658年)
- Muhammad ibn Abi Bakr (658年)
- Khabbab ibn al-Aratt (658年)
同じ地域に関係する人物
- Jeanne Duval (1868年没)
- ダゴベルト1世 (フランク王) (639年没)
- ピエール・ドジェーテル (1887年没)
- ファドワ・スレイマン (2017年没)
- ルイ・クロード・ド・サンマルタン (1803年没)