伝記
ムンゴ・パークは、スコットランドの西アフリカ探検家である。1771年9月11日、セルカークシャーのヤーロウ川に面したファウルシールズに生まれた。父はバクルー公から借りた小作農場を営んでおり、13人家族の7番目として育った。小作農家としては比較的裕福で、両親は彼に立派な教育を受けさせた。もともと聖職者にするつもりだったが、14歳のころ、セルカークの外科医トーマス・アンダーソンの弟子になった。師の娘アリソンとはこの頃に知り合い、のちに妻となる。1788年10月にエディンバラ大学に入り、医学や植物学を学んだ。1791年に医学を修了し、サー・ジョゼフ・バンクスの推薦で、東インド会社の船舶の船医助手の職を得た。1793年2月にスマトラへ向けて出帆し、1794年に帰国して、スマトラの新種の魚についてリンネ協会で講演した。
1794年9月、ニジェール川への道を探すアフリカ協会の任務に名乗りを上げた。協会は1790年にサハラで死亡したダニエル・ホートン少佐の後継者を探しており、バンクスの後援でパークが選ばれた。1795年5月22日にポーツマスを出帆し、6月にガンビア川に達した。12月2日、二人の現地ガイドを連れて未知の奥地に向かい、旅は困難に満ちて、ムーア人の族長によって4か月間投獄された。1796年7月1日に脱出し、馬一頭とポケットのコンパスだけで、7月21日にセグーでニジェール川に達した最初のヨーロッパ人となった。さらに川を下ったが、力が尽きて引き返さざるを得なかった。帰路ではカマーリアで病に倒れたが、7か月あまり家に泊めてくれた親切な男性のおかげで命が助かった。1797年6月にピサニアに戻り、12月22日にアンティグア経由でスコットランドへ帰国した。死んだと思われていたため、世間は熱狂した。1799年に旅行記『アフリカ内陸部紀行』を公表し、その率直な描写は後の旅行作家の基準となった。
同年8月にアリソンと結婚し、ファウルシールズに定住した。オーストラリアへ赴く計画は立ち消えになり、1801年10月にピーブルズに移って医師として開業した。1803年秋に政府から新たなニジェール探検の指揮を求められ、単調な生活にいらだっていたため受け入れた。1804年5月、ファウルシールズに戻り、近隣に住んでいたサー・ウォルター・スコットと知り合って親しくなった。当時、ニジェール川とコンゴ川は同じ川だという説を採っていた。
1805年1月31日に隊長に任命され、ポーツマスからガンビアへ出帆した。義理の兄弟で副隊長の中尉アレクサンダー・アンダーソン、製図工のジョージ・スコットら、ゴレ島でマーティン中尉と35人の兵が加わった。しかしニジェール川に着いたのは8月中旬で、発熱や赤痢で倒れ、生き残ったヨーロッパ人は11人にすぎなかった。パークは2隻の小舟をつなぎ合わせ、一隻の船に改造してジョリバ号と名づけ、11月19日に下流へ出航した。副隊長は10月28日に死亡した。出発前、案内人アイサッコに手紙を託してガンビアへ帰した。植民地省長官宛の手紙では、ニジェール川の終点を発見するか、死ぬかだと固い決意を述べた。妻に宛てて、沿岸に着くまでどこにも上陸しないと書いたのが、最後の便りであった。のち、アイサッコが生き残った案内人アマディ・ファトゥマから聞いた話によると、船は川を下る間に何度も現地の舟に追われ、銃で撃退した。ブッサの急流で船が岩に乗り上げ、敵意を持つ原住民に攻撃され、パークはマーティンらとともに川に飛び込んで溺死したという。1806年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ・ジャクソン (1806年没)
- ガブリエル=フランソワ・ドワイアン (1806年没)
- マリア・アントニア・デ・ナポレス・イ・シシリア (1806年没)
- フランツ (ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公) (1806年没)
- ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル (1806年没)
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