伝記
栄留王は、高句麗の第27代の王である。在位は618年から642年。姓は高、諱は建武、または成といい、『三国史記』の宝臧王紀では諱のまま建武王と記される。第25代平原王の子で、先代の嬰陽王の異母弟にあたる。618年9月に先王が亡くなったのを受けて王位に就いた。平原王の次男(第二子)で、生まれたときの名は成といい、610年代に後継者に定められて名を高建武に改めたとされる。平壌系の王統に属し、即位後は周辺国との平和を保つ方針をとったとされる。
即位した年に中国では唐が建国されており、栄留王はただちに唐へ朝貢して和親を結んだ。両国はしばしば使節を交換し、622年には隋の高句麗遠征の際の捕虜を互いに交換した。唐に送還された捕虜は1万人に及び、唐の高祖は非常に喜んだ。624年には唐の暦を願い出て、唐はこれに応えて栄留王を上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊封した。このとき高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受けた。翌625年には唐に使者を送り、仏教と道教の教えを学びたいと申し入れて許された。隋の遠征による打撃から立ち直る途上の高句麗と、国内の統一を進める唐のどちらも、新たな戦いを望む状況にはなかった。
しかし唐が国内の混乱を収めるにつれ、両国の緊張は高まった。630年に東突厥を破った唐は、翌631年、高句麗に対し、隋に勝った記念の塚である京観の破壊と、そこに使われた隋兵の遺体・遺骨の返還を求めてきた。この年、唐の太宗は仏教を崇敬する影響から、新旧を問わずすべての京観を破壊する詔を出しており、これもその一環だった可能性が高い。栄留王は唐への警戒から、同年のうちに扶余城から東南の渤海湾に至る千里長城を築いて侵略に備えた。この工事は十数年に及ぶ事業で、一説には淵蓋蘇文の監督のもとで進められ、完成は646年とも伝わる。640年に唐が高昌国を服属させると、世子の桓権を唐に派遣して国学への入学を求め、実質的な人質として差し出すことで緊張の緩和に努めた。唐は陳大徳を遣わして高句麗を慰労したが、その目的は領内の実情を調べることにあった。
半島では、新羅に奪われた領土を取り戻そうと新羅とも戦ったが、当時の新羅には金庾信や閼川らの将軍がいて勢いがあり、敗戦を重ねるだけだった。626年には唐の使者の仲介で百済・新羅と和解したともいわれるが、629年には金庾信が高句麗の娘臂城を奪い、638年にも失地の回復を試みて新羅に敗れたとされる。
唐が高句麗を討とうとしていることを受け、淵蓋蘇文は国内の体制を再編する必要があると考え、642年10月にクーデターを起こした。栄留王は100名以上の臣下とともに殺害された。一説には、王と一部の官僚が有力な軍人たちの殺害を計画し、まず勢力が王権を上回りつつあった淵蓋蘇文を狙ったが、それを知った淵蓋蘇文が先に動いて王らを討ったともいう。『三国史記』の栄留王紀には埋葬地も諡も記されていない。一方、唐の太宗は王の死を聞いて長安の苑中で葬儀を行い、使者を送って霊を弔わせたという記事が『旧唐書』と『三国史記』にある。淵蓋蘇文は王の甥にあたる宝臧王を王位に就けた。王には王子の桓権、福徳のほか、娘の武英と淑英がいたとされる。王の最期は後世のテレビドラマにも描かれ、「淵蓋蘇文」(2006〜2007年、SBS)や「刃と花」(2013年、KBS2)などに登場する。
同じ年に亡くなった人物
- キュネイルス (ウェセックス王) (642年没)
- Tulayha (642年没)
- ハーリド・イブン・アル=ワリード (642年没)
- Tulga (642年)
- オスワルド (642年)
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