伝記
ハーリド・イブン・サイードは、預言者ムハンマドの教友で、クライシュ族ウマイヤ家の出である。アブー・サイードの称号でも知られる。最初期の改宗者の一人とされ、ムハンマドの書記や行政の代理人を務めた。のちにはカリフ・アブー・バクルのもとで軍の指揮官としてシリアへ向かい、その地で没した。没年は634年とされ、635年とする記述もある。
父はアブー・ウハイハの名で知られるサイード・イブン・アル・アース、母はマフズーム家のヒンド・ビント・アル・ムギーラである。改宗の順は4番目とも、娘のウンム・ハーリドが伝えるようにアリー、アブー・バクル、ザイド・イブン・ハーリサ、サアド・イブン・アビー・ワッカースに続く5番目ともいわれる。きっかけは、父が自分を大きな火に投げ込もうとし、ムハンマドが救ってくれるという夢だった。夢を聞いたアブー・バクルに勧められてムハンマドを訪ね、イスラームを受け入れた。父は激怒し、彼を捕らえさせて殴り、数日間、水も与えず日にさらした。それでも信仰を捨てないと知ると、家から追い出した。
アビシニアへの移住には、妻のウマイマ・ビント・ハラフとともに加わった。そこで息子サイードと娘アマが生まれ、ムハンマドとウンム・ハビーバの結婚では後見人を務めた。のちに兄弟のアムル、ジャアファル・イブン・アビー・ターリブらと帰国した。書記としては主に行政上の事務を担い、タキーフ族あての文書など公文書を起草し、「ビスミッラー」の句を最初に書いた人物ともいわれる。メッカ征服の後には300人を率いてウラナ方面に遠征し、さらにイエメンのマズヒジュ族から喜捨(ザカート)を集める役目を任された。
ムハンマドの死後、イエメンからメディナに戻った彼は、アブー・バクルへの忠誠の誓いを約1か月遅らせた。カリフ位はハーシム家とアブド・シャムス家を含むアブド・マナーフの子孫に属するという考えからである。兄弟のアバーンもハーシム家との連帯から誓いを拒み、ハーシム家が誓うと決めてから従った。伝承、とくにシーア派の伝承では、ハーリドはアリー・イブン・アビー・ターリブを支持した最初期の人々に数えられる。
633年、アブー・バクルは彼をシリア遠征の指揮官の一人に任じ、ビザンツ領の奥深くには入らぬよう命じた。ハーリドはカスタル付近でアルメニア人将軍ワーハーンのビザンツ軍を破ったが、損害は大きく、増援を求めた。イエメンの精鋭が送られると、勢いに乗ってダマスカスへ急進した。ワーハーンは退却を装って彼を誘い込み、マルジュ・アル・サッファルで反撃に転じて両翼を包囲した。この奇襲で息子サイードが戦死し、ハーリドは戦場から逃れて軍は潰走したが、イクリマ・イブン・アムルが6,000人を集めて退却を支え、全滅は避けられた。ハーリドはワーディー・アル・クラーに退き、残った兵の大半はシュラフビール・イブン・ハサナの軍に組み入れられて、独立した指揮は事実上終わった。のちの戦いの前夜、ウンム・ハキーム・ビント・アル・ハーリスと結婚し、その戦いで戦死した。アジュナーダインの戦いでの死とする伝承もあり、ヤルムークの戦いとする後世の説は信頼性が低いとされる。娘のアマはアッ・ズバイルに嫁いでアムルとハーリドの二人の息子をもうけ、ウンム・ハーリドと呼ばれた。息子サイードはヤルムークの戦いで一隊を率い、国境を守ろうとして部下とともにローマ軍に殺されたとも伝えられる。
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