伝記
ケオスのシモーニデースは、古代ギリシアの抒情詩人である。紀元前556年頃に生まれ、紀元前468年に没したとされる。ただし生年は古代の資料でも一致せず、後世の百科事典は第56回オリンピア紀、あるいは別の説として第62回のこととし、89年の生涯を送ったと記す。現代の研究者の多くは紀元前556年から紀元前468年までを受け入れているが、それだと甥の詩人バッキュリデースより約50歳も年長になるなどの難点も残る。生地はキュクラデス諸島の最も外側にあるケオス島(現ケア島)のイウリスで、父はレオプレペスと伝わる。ヘレニズム期のアレクサンドリアの学者たちは、サッポーやピンダロスらとともに彼を九人の歌唱詩人に数えた。
若いころは故郷で詩と音楽を教え、アポローンの祭りのためのパイアンを作っていた。島には合唱隊を訓練する施設や競技の伝統があり、のちに勝利の頌歌を開拓する土壌となった。しかし故郷では才能を活かせないと悟り、文芸の保護者だった僭主ヒッパルコスの宮廷があるアテナイへ、30歳ごろに移った。そこでは詩人ラソスと張り合ったとも伝わる。紀元前514年にヒッパルコスが暗殺されると、テッサリアに身を退き、名家のスコパス家とアレウアス家の保護を受けて暮らした。キケロは、この関係の終わりを次のように伝えている。スコパスの戦車競走の勝利を祝う宴で、シモーニデースが双子の神カストルとポリュデウケスを讃える頌歌を歌ったところ、スコパスは怒り、報酬の一部しか払わず、残りは双子の神に求めよと言った。まもなく若者二人が訪ねてきたと告げられて彼が席を外すと、広間の天井が崩れてスコパスと客たちが押しつぶされた。遺体の確認を頼まれた彼は、席の位置を思い出して身元を言い当てたという。これが記憶術のはじまりとされ、彼はその考案者と信じられている。
マラトンの戦い(紀元前490年)の後にアテナイへ戻ったが、まもなくシケリアへ渡った。シラクサ王ヒエロン1世に招かれ、残りの人生をその宮廷で過ごした。ヒエロンと隣国の支配者との争いを仲裁したとも伝えられ、詩人にとどまらず政治にも影響力を持った。アテナイのテミストクレスやスパルタのパウサニアスとは個人的な友人で、ペルシア戦争を歌った詩は愛国心に強い衝撃を与えたと考えられている。母音の長短を区別する文字を導入したという伝説もあり、学者としての評判の高さを物語る。一方で、詩にはほとんど言い値をつけたため、後世の喜劇作家らは彼を強欲と評した。金持ちと天才のどちらに生まれたいかと問われて、天才はいつも金持ちの戸口にいるから金持ちと答えたなどの逸話が残る。
作品で現存するのは、短いエレゲイアが二、三、いくつかのエピグラム、そして約90の抒情詩と合唱詩の断片である。有名なのはテルモピュライの戦死者に捧げたとされる墓碑銘で、旅人よ、スパルタの人々に、我らは彼らの命に従ってここに横たわると告げてくれという趣旨である。アルテミシオンの海戦や、パトロンのスコパスの栄誉を歌った詩、勝利者への頌歌、葬送歌、神々への讃歌もあった。ダナエーとペルセウスを歌った断片には、詩は語る絵、絵は黙る詩という句が含まれ、のちにホラティウスの詩は絵のようにという言葉に通じたとされる。ケオスを有名にした徳目である自己制御が、彼の道徳観にも表れているとされ、彼はギリシアのヴォルテールとも呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- アリステイデス (将軍) (紀元前468年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンニバル・マゴ (紀元前406年没)
- ドメニコ・モドゥーニョ (1994年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・オディエルナ (1660年没)