HISTORICAL PERSON · 630年没

シャフルバラーズ

サーサーン朝の将軍。対ビザンツ戦争でエルサレムやアレクサンドリアを占領する戦果を挙げたが、後に反乱を起こしアルダシール3世を殺害して王位を簒奪、わずか40日後に暗殺された。

生涯
630年没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / クテシフォン)
出生地
—
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

シャフルバラーズは、サーサーン朝の将軍で、のちに簒奪によって王となった人物である。ホスロー2世(在位590年〜628年)の軍司令官として歴史に現れ、東ローマ帝国との戦争では主要な将軍の一人として活躍し、のちには反逆者として大きな役割を果たした。名は実際には名誉称号で、「帝国のイノシシ」を意味する。イノシシはゾロアスター教のヤザタ、ワフラームに結びついた勝利の象徴であった。即位と死は630年とするのが多くの研究者の見方だが、629年とする出典もある。

ミフラーン家に属し、アルダシールという人物の子であった。後半生には高い地位に登り、南方(ネームローズ)のスパーフベド(軍司令官)に任じられた。ホスロー2世の姉妹ミルフランと結婚し、シャープールという息子が一人生まれた。ほかにも息子がいたが、同じ母の子かどうかはわからない。ホスロー2世は即位の際に東ローマ皇帝マウリキウスの支援を受け、その見返りにアルメニアの大部分やメソポタミアなどを譲っていた。マウリキウスが殺されると、報復を名目に602年、東ローマとの戦争を始めた。26年に及んだこの戦争は両帝国間で最後かつ最も破壊的なものとなり、シャフルバラーズはその中で初めて記録に現れる。

610年にヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位した。613年、アンティオキア近郊で反撃の準備をしたヘラクレイオスをシャフルバラーズは決定的に破り、この都市を占領して地中海にサーサーン朝の海軍を展開できるようにした。続いてシリアで合流した東ローマ軍も破り、ダマスカスを包囲して占領し、多数の捕虜を得た。ダルアー近郊でも東ローマ軍を破っており、この戦いはクルアーンにも言及があるという。最も重要な出来事は、包囲戦の末に聖地エルサレムを占領し、聖十字架を戦利品として持ち去ったことである。618年、ホスロー2世の命でエジプトに向かい、619年にアレクサンドリアを占領して、ナイル川沿いに支配を南へ広げた。621年までに安定した支配が確立され、総督が赴任した。

622年、ヘラクレイオスがアナトリアで反撃を始めると、シャフルバラーズは迎撃に派遣されたが、最終的に敗退した。その後、ティグラノケルタでヘラクレイオスは他の将軍たちの軍勢を各個に撃破した。625年2月にはヘラクレイオスの夜襲で主力の陣営を破壊され、単身で逃れざるをえなかった。のちセイハン川での戦いでは偽装後退で前衛を壊滅させたものの、橋の防御を怠って流れを変えられた。それでもヘラクレイオスへの称賛を、仕えていたギリシア人に語ったという。さらに少数の軍団でボスポラス海峡の対岸のカルケドンに進んだが、東ローマ海軍が海峡の制海権を握っていたため、アヴァール人と呼応した包囲は成功せず、コンスタンティノープルへの脅威は去った。

失望したホスロー2世は、副司令官カルダリガンにシャフルバラーズを殺すよう命じる書簡を送ったが、使者は捕らえられ、書簡はヘラクレイオスの手に渡った。シャフルバラーズはコンスタンティノープルでヘラクレイオスと会い、書簡を読んで東ローマ側に鞍替えした。627年にはホスロー2世のクテシフォン行きの求めに従わず、バビロニアに移った。翌年、戦争と抑圧的な政策に疲れた貴族たちがカワード2世を解放し、ホスロー2世は廃位された。シャフルバラーズはミフラーン家を代表してそこに加わった。のちアルダシール3世を殺害して王位を簒奪したが、即位の40日後、630年6月9日に別の貴族に殺された。

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