伝記
統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)は、西突厥の可汗で、628年に没した。統葉護は称号で、アシナ氏の出身とされ、名は伝わらない。生年も不明である。射匱可汗の弟にあたり、その治世は西突厥の最盛期とみなされている。
618年に射匱可汗が亡くなると、弟の統葉護が立って大可汗となった。中国の史書は、彼が智謀と武勇にすぐれた人物で、北の鉄勒を併合し、西はサーサーン朝ペルシアを拒み、南は罽賓と境を接して、西域に覇を唱えたと記す。西域の諸国王には頡利発の官位を授け、吐屯という官を1人ずつ派遣して統括させ、貢納の取り立てを監督させた。かつて烏孫の地であった所に拠り、可汗の本拠を石国(現在のタシュケント)の北にある千泉に移した。ほかにも、トハリスタン、ガンダーラ、タリム盆地、フェルガナ、バクトリアなどを含むエフタルの諸侯国を服属させ、インダス川流域に達すると、エフタル系の王家に代えてテュルク系の統治者を置いたとされる。仏教の広まりを支援し、インドのナーランダー僧院出身の学僧で翻訳者のプラバーカラミトラを庇護したという。唐の皇室と婚姻関係を結んだ可能性も指摘されている。中国の仏僧玄奘は、現在のキルギスにあった西突厥の都スイアブを訪れて可汗の様子を書き残した。可汗は緑の絹の服をまとい、長い髪をほどき、額に白絹の帯を巻いて後ろに垂らしており、左右には刺繍の衣を着けた大臣200人が並び、そのほかの軍の従者は毛皮や毛織物を着て、槍や旗、弓を整え、駱駝や馬に乗った者が遠くまで連なっていたという。玄奘が会った可汗を統葉護とみる研究者が多いが、息子の肆葉護とみる説もある。『旧唐書』は、その治世を西突厥がかつて到達したことのない強勢の時代として描いている。
唐との関係も深かった。619年7月には高昌とともに唐へ使者を送って朝貢し、620年3月にもふたたび使者を送り、條支の巨鳥の卵や獅子の革を貢納した。622年には、飢饉で弱った東突厥を唐と共に討ったが、その年の冬には東突厥の頡利可汗と和睦している。626年には唐に請婚の使者を送り、高祖の許しを得て、高平王の李道立が返事を伝えに来た。統葉護可汗は大いに喜び、翌年に使者を遣わして、万釘宝鈿金帯と馬5千頭を献上した。しかし東突厥が毎年唐の辺境を侵し、唐と西突厥をつなぐ道が遮断されたため、結婚は実現しなかった。
ペルシアとの戦いについては、620年代前半に甥のボリ・シャドが、コーカサス山脈を越えてペルシア領へ襲撃を重ねたとされる。アルメニアの歴史家の記録では、619年に西突厥がホラーサーンのトゥースに攻め入り、いったん撃退されて援軍を求め、可汗は30万の援軍を送った。要塞を落としてエスファハーンまで進んだのち、撤退の途中で指揮官を討たれ、統制を失って大きな損害を受けたという。また627年から629年の第三次ペルソ・テュルク戦争では、南コーカサスのデルベントを包囲したとされる。東ローマ帝国側の史料に見えるハザールの可汗ジエベルを統葉護可汗と同一人物とする説は長く唱えられたが、近年の研究では、ジエベルは統葉護を殺した伯父の莫賀咄にあたるとされる。
強盛を自負した統葉護可汗は、支配下の国に恩恵を施さなかったため、部衆は怨みを抱くようになり、葛邏禄の多くが離反した。そうしたなか、628年に伯父の莫賀咄に殺され、可汗位を奪われた。唐の太宗は死を聞いて深く悼んだという。没年は630年とする説もある。その死後、西突厥の勢力は大きく崩れ、従っていた部族の多くが独立し、ハザール可汗国や大ブルガリアなどの後継国家が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- ホスロー2世 (628年没)
- テオデリンダ (628年没)
- ニシビスのババイ (628年)
- Anastasius of Persia (628年)
- 推古天皇 (628年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。