伝記
ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国の軍人、政治家で、初代大統領を務めた建国の父の一人である。1732年2月22日(グレゴリオ暦)に、バージニア植民地のウェストモアランド郡にあるポープズ・クリーク・プランテーションで生まれ、1799年12月14日に没した。当時のイギリスは3月25日を年初としたため、ユリウス暦では1731年2月11日とされるが、生年は1732年である。一家はバージニアで黒人奴隷を使うプランテーションを営み、のちに鉱山開発も手がけた中流のジェントリで、父オーガスティンと2番目の妻メアリー・ボールの子であった。父の先妻との間には4人の子があり、メアリーとの間には6人が生まれて5人が育った。幼年期の多くをフレデリックスバーグ近くのフェリー・ファームで過ごし、11歳で父が死ぬと、14歳年長の長兄ローレンスが父親代わりとなった。ローレンスが父の遺産の大半を継いで農園をマウントバーノンと名づけ、ワシントンはフェリー・ファームを相続した。
青年期には測量を学び、バージニアの地形に通じた。1749年、ローレンスの義父フェアファックスの後押しで、新設のカルピーパ郡の測量士となって最初の公職に就き、その収入でシェナンドー渓谷に農園を買った。1751年、結核を患う兄に従ってバルバドスに渡り、天然痘にかかったが回復し、あばたが残ったものの免疫を得た。1752年にフリーメイソンに加わり、同年に兄が没すると、マウントバーノンを借り、のちに相続した。副総督ディンウィディの指名で民兵隊長の一つを継いで少佐となり、1753年にはフランスの出方を探るため、ル・ビューフ砦へ使いに出された。この報告書は大西洋の両側で読まれた。
1754年にバージニア民兵の大佐となり、オハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。偵察部隊を攻撃して指揮官を含む10人を殺害し、反撃に備えてネセシティ砦を築いたが、降雨で冠水し、数に勝るフランス軍に降伏した。この敗戦がフレンチ・インディアン戦争の開戦を招いたとされる。1755年にはブラドック遠征に従軍し、モノンガヒーラの戦いでは3頭の馬が撃たれ、4発の弾丸がコートを貫いたが、退却のさなかにも冷静だった。1758年にフォーブス遠征に加わりデュケイン砦のフランス軍を排除し、その後16年間は農園主、政治家として過ごした。1759年1月6日、27歳の未亡人マーサ・ダンドリッジ・カスティスと結婚し、その連れ子2人を育てたが、夫妻に子はなかった。1775年にはマウントバーノンを倍の6,500エーカーに広げ、100人以上の奴隷を所有した。
1769年のタウンゼンド諸法への反対で指導的な役割を担い、1774年に第一次大陸会議の代議員に選ばれた。ただし、トマス・ペインの『コモン・センス』を読む1776年までは、植民地の独立を支持していなかった。1775年のレキシントン・コンコードの戦い後、軍服姿で第二次大陸会議に現れ、6月15日に植民地軍総司令官に任命され、ボストン包囲戦を戦った。1776年3月にドーチェスター高地へ大砲を据えて、イギリス軍をボストンから退け、12月25日の夜にデラウェア川を渡ってトレントンを攻撃した。続く1777年1月のプリンストンでの攻撃でニュージャージーを奪還し、独立を支持する人々の士気を高めた。同年9月のブランディワインの戦いには敗れ、フィラデルフィアはイギリス軍の手に落ちたが、10月初めにジャーマンタウンで戦った。
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