伝記
乾隆帝は、清の第6代皇帝である。諱は弘暦、廟号は高宗で、在位中の元号から乾隆帝と呼ばれる。清王朝の最盛期を築き、1799年に崩御した。
雍正帝と、側妃の熹貴妃ニオフル氏(のちの孝聖憲皇后)との間の第4子として生まれた。祖父の康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目され、太子密建を経て即位した。質素だった祖父や父とは違い、派手好みの性格であった。父の崩御後、25歳で即位すると、父の時代に助命されていた人物を、張熙とともに逮捕して凌遅刑に処し、一族まで処刑して存在感を示した。
功績としてまず挙げられるのが、十全武功と呼ばれる10回の外征である。ジュンガルへの遠征、四川の大金川・小金川、グルカ(ネパール)への各2回に、回部(ウイグル)およびバダフシャーン、台湾の林爽文事件、ミャンマーのコンバウン朝、ベトナムの西山朝への各1回を加えた計10回で、これを誇り、自らを十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模に広がり、ミャンマー、ベトナム、ラオス、タイまで朝貢するようになった。乾隆帝は全て勝ったと言ったが、実際には中央アジアでの酷い苦戦もあり、ベトナムやミャンマーなどは実質的に負けの遠征だった。苗族の反乱や白蓮教徒の乱も起こった。イエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ったともいわれる。1793年にはイギリスの使節マカートニーが入朝し、三跪九叩頭の礼は免除されたものの、貿易に関するイギリスの要求は退けられた。
国内政治では、雍正帝の時代に置かれた軍機処が恒常的な政務機関となった。康熙・雍正年間の繁栄で国庫が充実していたため、民衆にたびたび減税を行った。古今の優れた書物を書き写して保存する『四庫全書』の編纂や外征も、この経済力を前提としていた。文化が大いに振興し、乾隆帝自身も多くの漢詩を作った。中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクションを収集して、たびたび江南へ行幸した。宮廷画家たちも重んじ、即位とともに画院処を設け、ヨーロッパの画家が仕事をする場として如意館もあった。チベット仏教にも篤く帰依し、チベット語の大蔵経をモンゴル語と満洲語に翻訳させ、北京や熱河に多くのチベット寺を建てた。自らも、史上自分ほど幸福な天子はいないと自慢していたという。
その一方で、衰えの芽もあった。奸臣ヘシェン(和珅)を重用し続け、文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。1738年には、正室との間の皇二子永璉を9歳で亡くし、2か月後には、カスティリオーネに、皇帝と皇子たちの団欒を描いた「歳朝図」を命じたという。17人いた皇子のうち、85歳で退位しようとしたときに残っていたのは4人だけだった。1795年、治世が60年に達すると、祖父の治世61年を超えてはならないという名目で、皇十五子永琰(嘉慶帝)に譲位して太上皇帝となったが、実権は手放さず、ヘシェンに政治権限を委ねた。嘉慶帝はヘシェンの跳梁をどうにもできず、綱紀は弛緩した。1799年に崩御し、陵墓は清東陵内の裕陵にある。ヘシェンは崩御後、嘉慶帝によってただちに死を賜り、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=フランソワ・マルモンテル (1799年)
- ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク (1799年没)
- フランティシェク・クサヴェル・デュシェック (1799年没)
- カロン・ド・ボーマルシェ (1799年没)
- エッタ・パルム・デルデール (1799年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュゼッペ・カスティリオーネ (1766年没)
- 嘉靖帝 (1567年没)
- 習仲勲 (2002年没)
- 汪東興 (2015年没)
- 文繡 (1953年没)