伝記
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、1744年9月25日にベルリンで生まれ、1797年11月16日にポツダムで没したプロイセン国王で、在位は1786年8月17日から1797年11月16日である。ブランデンブルク選帝侯も兼ねた。プロイセン王子アウグスト・ヴィルヘルムの長男で、フリードリヒ2世の甥にあたる。母は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナント・アルブレヒト2世の娘で、フリードリヒ2世の王妃エリーザベト・クリスティーネの妹でもあるルイーゼ・アマーリエである。
伯父のフリードリヒ2世には子がなく、その弟である父が1744年に推定相続人とされていた。父の薨去により、当時14歳の長子が王太子の地位を継いだ。生まれた時代はオーストリアとの戦争のさなかで、10月11日の洗礼には、神聖ローマ皇帝カール7世、ロシア女帝エリザヴェータ、フランス王ルイ15世らが代父母に選ばれたが、いずれも出席せず代理が立った。1747年、フリードリヒ2世は3歳の甥を家族の手から離して王宮に移し、啓蒙主義の精神による教育を行うことにして、家庭教師にニコラ・ド・ベグランを選んだ。ベグランは4、5歳の王子の日課を厳しく定め、午前にドイツ語とフランス語を学ばせ、正午には宮廷の騎士を招いて外交作法を身につけさせた。フリードリヒ2世はたびたび教育に口を出し、内気な甥に、貴族の間で尊敬を得るための「厚かましさ」を求めたが、王子はこの要求に応えられなかった。数学、自然科学、医学、法律、哲学、歴史を学び、ギリシャ、ローマ、アッシリア、ユダヤの歴史の知識は確かであった。だが帝王教育を授けても成果が上がらず、伯父はこの甥を気に入っていなかったという。
1765年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世の娘で従妹のエリーザベト・クリスティーネと結婚したが、不義密通を理由に1769年に離婚した。同年にヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世の娘フリーデリケと再婚し、翌1770年に生まれたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世を含む8人の子をもうけた。正妻の子のほかにも、愛人たちとの間に分かっているだけで8人の子がいる。トランペット奏者の娘にすぎなかった愛人が、1796年にリヒテナウ伯爵夫人の称号を授けられたことは風刺の的になり、身分違いの交際は世論から非難された。宮廷は、先王の時代の質素さから一転して華やかになり、国王は「でぶの女たらし」と呼ばれた。
1786年8月17日にフリードリヒ2世が崩御し、王位に就いた。フランス革命の自国への波及を恐れ、オーストリアのレオポルト2世と会見してピルニッツ宣言を発した。1795年にはバーゼルの和約でフランス革命政府と講和した一方、第二次、第三次ポーランド分割によって、ワルシャワを含むポーランド中央部に広大な領土を得た。国内では先王の啓蒙的な統治から転じ、検閲と宗教統制を強めた。
国王は享楽主義者であったが、ただの俗物ではなく、芸術にも理解を示した。軍事国家だったプロイセンでドイツ文化と才能を開花させ、全員フランス人だった王立アカデミーの会員にドイツ人を任命し、ドイツ演劇を支援した。音楽好きで、チェロはジャン=ピエール・デュポールに習い、モーツァルトらの作品が捧げられている。ベルリンの整備を命じ、ブランデンブルク門を建設した。薔薇十字団の一員として神秘主義に傾倒したことでも知られる。1797年にポツダムで崩御し、長子フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が後を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ジェフリー・アマースト (初代アマースト男爵) (1797年没)
- アーガー・モハンマド・シャー (1797年没)
- ダゴベルト・ジークムント・フォン・ヴルムザー (1797年)
- エマニュエル・ド・ロアン=ポルデュック (1797年)
- ジョゼフィーヌ・ド・ロレーヌ (1797年没)
同じ地域に関係する人物
- ルートヴィヒ・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゲルラッハ (1861年没)
- ヨハン・アブラハム・ペーター・シュルツ (1800年没)
- Carl Freiherr von Langen (1934年没)
- ヘルマン・シュルツェ=デーリチュ (1883年没)
- ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1513-1573) (1573年没)