伝記
ゲロンは、紀元前5世紀にゲラおよびシュラクサイを治めた僭主である。デイノメネスの息子で、祖先はエーゲ海のテロスからシケリア(シチリア)に渡り、ゲラを建設した一人だったとされる。親類のテリネスは、デーメーテールを含む大地の女神を祭る儀式によってゲラの住民を和解させたといわれ、その子孫は女神崇拝の神職を継いだ。ゲロンもその神官だったと思われる。弟にヒエロン1世、トラシュブロス、ポリゼロスがおり、父が神託を問うたところ、ゲロン、ヒエロン、トラシュブロスは僭主になる運命だと告げられたという。
ゲロンは各地の僭主と戦って恐るべき戦士との評判を得て、僭主ヒポクラテスの騎兵隊の司令官となった。ヒポクラテスがシケル人との戦いで戦死すると、その息子が跡を継いだが、ゲラの市民が反乱を起こした。ゲロンは息子たちを支える口実でこれを鎮め、軍を用いて自らの権力を固め、ヒポクラテスの領土を引き継いだ。紀元前485年、シュラクサイの貴族ガモリが市民に追放されて助けを求めてくると、これを領土拡大の好機とみて大軍を送り、ほとんど抵抗を受けずに市を占領して彼らを復帰させ、自らシュラクサイの僭主となった。ゲラは弟ヒエロンに任せ、ゲラ市民の半数をシュラクサイに移し、カマリナの貴族を追放した。続いてエウボエアとメガラ・ヒュブラエアを征服し、貴族を追放して他の住民を奴隷にしたと伝わる。シュラクサイは壮大な建築で栄え、傭兵を中心に総兵力は10,000に達し、傭兵にも市民権が与えられた。傭兵の多くは先住のシケル人で、一部はギリシア本土から雇われ、かつてゲロンと戦った者も多かったと思われる。ヘロドトスによれば、ゲロンは高貴な家に生まれて貴族に囲まれて育ち、下層の人々を気にかけなかったという。
アクラガスの僭主テロンの娘を妻に迎えて同盟を結んだゲロンのもとへ、紀元前481年、ペルシア戦争に備えてアテナイの使節が援軍を求めて訪れた。ゲロンは、自分がギリシア陸軍または海軍の司令官になるなら陸兵28,000と200隻を出すと答えたが、どちらの地位も得られず、派兵も補給も断った。一方でクセルクセスへの贈り物も用意していたとされる。背景には西方のカルタゴの脅威があった。紀元前480年、ハミルカルが率いるカルタゴ軍がパノルムスに上陸してヒメラへ向かうと、ゲロンは歩兵50,000と騎兵5,000を率いて救援に向かった。一部の部隊が同盟軍を装って敵の野営地に入り込み、山側に控えた別働隊に合図して陣に火を放たせ、ゲロンとテロンは決定的な勝利を収めた。カルタゴ軍はハミルカルを含む150,000を失ったという。
戦利品と2,000タレントの賠償金は兵と同盟都市に分けられ、シュラクサイの新しい神殿の建設にも充てられた。帰還したゲロンは市民を集め、行動と分配のしかたを説明し、誤っていたなら自分を殺してよいと述べたが、市民は引き続き彼を僭主と認めた。紀元前478年、約7年の統治ののちに死去し、跡は弟ヒエロンが継いだ。ヒエロンの死後は後継をめぐる混乱でシュラクサイ同盟が解体した。
ゲロンは城壁を築いてシュラクサイを難攻不落にし、征服した都市の富裕な市民を移住させて富を増やし、劇場やヒメラの勝利後のアテーナー神殿も建てた。ヒメラの勝利でシケリアはカルタゴの脅威から解かれ、以後70年間カルタゴは侵攻しなかった。死後には公費で墓と像が造られ、150年後にティモレオンが過去の僭主の記憶を消そうとした際にも、ゲロンの像は残されたという。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
- アウグスト・フォン・プラーテン=ハラーミュンデ (1835年没)
- シュラクサイのディオン (紀元前354年没)
- エウリュメドン (将軍) (紀元前413年没)
- ヒエロン2世 (紀元前215年没)
- マリア (シチリア女王) (1401年没)