伝記
エカチェリーナ2世は、ロマノフ朝第8代のロシア皇帝(女帝)で、1762年から1796年まで在位した。1729年5月2日(ロシア暦では4月21日)に生まれ、1796年11月17日(ロシア暦では11月6日)に没した。プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世とともに啓蒙専制君主の代表とされ、領土をポーランドやウクライナに広げたことから「大帝」と称される。
北ドイツのポンメルンのシュテッティンに、アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストの娘として生まれ、ルター派の洗礼を受けてゾフィー・アウグステ・フリーデリケと名づけられた。母ヨハンナ・エリーザベトはホルシュタイン=ゴットルプ家の出で、2歳のころからフランス人ユグノーの家庭教師に育てられ、フランス語に堪能で合理的な精神をもつ少女になった。美貌とはいえなかったが、頭脳を活かし、知性や教養を磨く努力を重ねたという。家柄は低かったが、母の早世した長兄が女帝エリザヴェータの若いころの婚約者だった縁もあり、14歳でロシア皇太子妃の候補となった。
1744年にサンクト・ペテルブルクへ着き、舞踏、正教、ロシア語を習った。同年、ロシア正教に改宗してエカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名した。翌1745年、エリザヴェータの甥である皇太子ピョートルと結婚した。エカチェリーナがロシア語を習得し、貴族や国民に支持されるよう努力したのに対し、ピョートルはドイツ風にこだわり、兵隊遊びに熱中して周囲の反感を買った。夫婦仲は破綻して、長く夫婦の関係はなかった。1754年に男児パーヴェルを出産した。
1761年12月にエリザヴェータが死去すると、ピョートルが即位してエカチェリーナは皇后となった。ピョートル3世はフリードリヒ2世の信奉者で、七年戦争ではロシア軍がプロイセンを追い詰めていたにもかかわらず、即位後すぐに講和を結んだため、軍の不評を買った。皇后を廃して寵姫ヴォロンツォヴァを皇后にしようとし、ルター派の信者として正教会にも弾圧を加えた。軍や正教会の怨嗟が高まるなか、エカチェリーナは1762年4月に極秘出産を済ませ、6月28日(ロシア暦)に近衛軍と正教会の支持を得てクーデターを敢行した。ロシア軍伝統の緑色の軍服を男装して着て、自ら馬上で指揮を執ったと伝えられる。クーデターはほぼ無血で成功した。廃位されたピョートル3世は、間もなく監視役のアレクセイ・オルロフに暗殺されたという。公式には持病の痔が悪化して急逝したと発表され、本人は関与を否定したが、真相は不明である。9月にモスクワで戴冠式を行った。
啓蒙思想の崇拝者で、啓蒙君主を自認し、ヴォルテールやディドロと文通した。自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設などに着手した。その集大成が、1766年の委員会に提案した「訓令」であったが、ロシア社会が未成熟だったこともあり、特筆すべき成果は上がらなかった。1773年にはヴォルガ川流域でプガチョフの乱が起こったが、1775年に鎮圧した。
対外的には、二度の露土戦争に勝ってウクライナの大部分やクリミア・ハン国を併合し、黒海への南下を進めた。西方ではポーランド分割を三度にわたり主導し、ポーランド・リトアニアを地図上から消滅させた。フランス革命には脅威を感じ、晩年には国内を引き締めて自由主義を弾圧した。1796年9月、孫娘をスウェーデン王に嫁がせようとして失敗し、健康を損ねた。11月、朝の書類仕事を始めたあと、化粧室で発作を起こして倒れ、脳梗塞と診断され、昏睡から覚めないまま亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- キリル・ラクスマン (1796年没)
- ウルリカ・パシュ (1796年没)
- Gotthard Friedrich Stender (1796年)
- フランツ・アントン・マウルベルチュ (1796年)
- アレクサンドル=テオフィル・ヴァンデルモンド (1796年)
同じ地域に関係する人物
- タラカーノヴァ (1775年没)
- アレクサンドル・ベリャーエフ (1942年没)
- マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后) (1828年没)
- ドメニコ・トレジーニ (1734年没)
- バルトロメオ・ラストレッリ (1771年没)