HISTORICAL PERSON · 618年没

射匱可汗

西突厥の可汗で、達頭可汗の孫。隋の煬帝に大可汗に立てようとされて泥撅処羅可汗を襲い大敗させ、のち国人に推されて即位した。玉門関より西の諸国を服属させ、東突厥と敵対した。死後は弟の統葉護可汗が継いだ。

生涯
618年没
死亡地
キルギス共和国(チュイ州 / スイアブ)
出生地
突厥汗国
出典
世界地図
キルギス共和国(チュイ州)

伝記

射匱可汗は、西突厥の可汗である。生年は不明で、618年に没した。姓は阿史那氏。曷薩那可汗の族父で、『旧唐書』では叔父とされる。達頭可汗の孫にあたり、父は達頭可汗の子の都六(トゥルク)とされるが、父については異説もあり、ムカン可汗の子とする見方もある。ただし都六とする説のほうが有力とされる。580年代ごろに、中央アジアのチャチ(タシケント周辺、シル川の北)の領地を与えられて治めていた。603年には東突厥の可汗に対する反乱に加わったが、604年には別の可汗に敗れ、その支配に服した。

西突厥は、達頭可汗の死後に東突厥から分かれて成立した国で、十の有力部族からなっていた。北東の五部族(ドゥルー)と南西の五部族(ヌシビ)がイリ川を境に対立していた。射匱は本来ならば達頭の死後に即位すると見込まれていたが、ドゥルー系の勢力は、世代の一つ下にあたる別の人物を可汗に立てた。この可汗は経験が浅く、ドゥルー氏族に操られる存在だったといわれる。ヌシビの部族連合と、無政府状態に苦しんでいた交易商人たちは、射匱の即位を支持した。

大業6年(610年)、隋の煬帝は西方で狩りをしようと考え、侍御史の韋節を遣わして、泥撅処羅可汗を召した。可汗がこれに応じなかったため、煬帝は怒り、可汗を廃して達頭可汗の孫の射匱を大可汗に就けようとした。射匱は泥撅処羅可汗を襲撃して大敗させ、可汗は妻子を棄てて高昌の東へ逃れた。大業7年(611年)12月、泥撅処羅可汗は弟の闕達度設らとともに隋に入朝した。翌大業8年(612年)、煬帝は可汗を国内にとどめ、弟の闕達度設には会寧郡で牧畜をさせた。これで西突厥の本国には大可汗が不在となり、国人たちは射匱を可汗に推戴した。

即位した射匱可汗は、いったん離反した西域諸国をふたたび服属させようとした。支配は東は金山(アルタイ山脈)から、西は海(カスピ海かアラル海)にまで及び、玉門関より西の諸国をすべて従えたという。東突厥とは敵対し、可汗庭は亀茲の北の三弥山に置かれた。別の伝えでは、隋と友好的な関係を保ち、615年から617年には隋の側に立って東突厥の可汗と戦ったとされ、東突厥との衝突は西突厥に益をもたらさなかったともいわれる。アルタイ方面には一連の遠征が行われた。612年か613年ごろには、先代のころに西突厥から分かれていたセヤントの首長イェデ・ハンを破り、セヤントは射匱の優位を認めたという。シルクロードの治安は保たれ、この治世はヌシビ優位の始まりを告げるものとされる。在位は611年から619年、あるいは610年から617年ともいわれ、612年から618年とする説もあり、一定しない。

射匱可汗の名は貨幣学からも知られる。616年から617年にかけてイスファハーンで発行された銀のメダルは、サーサーン朝やエフタルに対する勝利を記念したものとされ、遠征はイランの奥、レイやイスファハーンの地域にまで達した。表にはパフラヴィー文字で「勝利、増大、ジク」「王の中の王」と刻まれ、裏には火の祭壇と左右の従者が描かれる。征服地の統治に用いた印も知られ、中期ペルシア語で「ジク可汗、勝利」と記され、突厥文字で「仲間と家と村を大切にし、良い名を得よ」と読める銘文も添えられている。射匱可汗は618年に首都スイヤブで没したと伝えられる。跡は弟の統葉護可汗が継ぎ、その治世に西突厥は最盛期を迎えた。

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