伝記
オランプ・ド・グージュは、1748年5月7日にフランス南部のモントーバンの近郊で生まれ、1793年11月3日に処刑された劇作家であり、女優である。フェミニズム運動の世界的な先駆者とされる。本名はマリー・グーズで、オランプ・ド・グージュはペンネームである。フランス革命の渦中で、革命における女性の権利の不在を糾弾した。
父は肉屋のピエール・グーズ、母はラシャ繊毛工場長の娘アンヌ・オランプ・ムイセである。本人はポンピニャン侯爵の婚外子であると主張したが、研究者によれば、ポンピニャン家と母の家の関係は深く、侯爵と母を引き離すために父との結婚が取り決められたのだとされる。実の父が誰かは歴史的に確かめられないとの見方もある。1765年に17歳で、モントーバンの行政監督官の料理人オーブリと結婚し、まもなく息子をもうけたが、夫に先立たれた。結婚を墓場のようなものと呼び、再婚は拒んだ。パリへ移るとマリー=オランプと名乗り、息子に良い教育を受けさせた。貴族の女性たちが開くサロンに出入りし、ブリッソーやコンドルセら政治家、作家、フリーメイソンのメンバーと交流して、才能を認められていった。長らく高級娼婦だったとされてきたが、それは同時代や後世の作家の誹謗中傷を鵜呑みにしたもので、事実を確認できない。美貌であり、自由な恋愛を否定しなかったが、保護者はジャック・ビエトリクスで、1788年には8万リーブルの財を得て、文筆活動に注ぎ込んだ。執筆はすべて口述筆記で、戯曲、小説、政治的パンフレットと分野は多岐にわたり、非常に多産であった。
黒人奴隷制度を扱った戯曲『ザモールとミルザ』は、1785年にコメディー・フランセーズの演目に加えられたが、役者たちの反対を受け、検閲や上演妨害が繰り返された。この作品は『黒人奴隷制』として1792年に出版された。1788年には『黒人についての考察』を出して、黒人の友の会に迎えられた。コメディー・フランセーズは宮廷の援助に頼り、植民地貿易は当時の外国貿易の半分を占めていたため、奴隷制の擁護派からの圧力は強かった。
フランス革命が始まると女権運動を始め、女性新聞の創刊や愛国募金運動、女性のための第二国立劇場の建設などを計画した。フランス語で人間を意味する語は男性を意味するため、人権宣言の人間には女性が含まれていないと考え、抗議を始めた。1791年憲法でも女性の権利が無視されたため、同年9月に17条からなる『女性および女性市民の権利宣言』を自ら書いて発表した。ロベスピエールやマラーを公然と批判してジロンド派を支持し、ダントンを称賛した。1792年12月15日、ルイ16世の裁判に先立ち、元国王の弁護をしたいと国民公会に申し出たが、却下された。これが原因で王党派と疑われ、家に人が押しかけて脅迫を受けた。
1793年夏、ロベスピエールらを批判するポスターを貼る準備中に反革命の容疑で逮捕された。共和制、連邦制、立憲君主制のどれを選ぶか住民投票にすべきだと呼び掛ける本を著したことも、反革命的と見なされた。11月3日に裁判が開かれたが弁護士が出席せず、代わりの弁護士の選任は却下され、自ら弁護した。無罪を確信していたが、有罪の判決が下り、同日午後4時に処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ・ド・ノアイユ (1793年)
- マリー・アントワネット (1793年没)
- カール・オイゲン (ヴュルテンベルク公) (1793年没)
- ジョン・ミッチェル (天文学者) (1793年没)
- William Hudson (1793年没)
同じ地域に関係する人物
- クロード・ペロー (1688年没)
- ウラジーミル・ブルツェフ (1942年没)
- エティエンヌ・ドレ (1546年没)
- イワン・モジューヒン (1939年没)
- ジョン・ケイ (飛び杼) (1780年没)