伝記
グリゴリー・アレクサンドロヴィチ・ポチョムキンは、ロシア帝国の軍人、政治家で、女帝エカチェリーナ2世の寵臣である。1739年9月13日(ロシア暦)、スモレンスク近郊のチジョヴォ村で、中程度の地主貴族の家に生まれた。父アレクサンドルは戦功のある退役軍人、母ダリヤは美しく聡明な人とされる。名は父のいとこで名付け親のグリゴリー・キズロフスキーにちなむ。6人きょうだいの唯一の男子だった。1746年に父が没すると、母は息子の出世のためにモスクワへ移り、彼はモスクワ大学付属のギムナジウムに入った。語学に秀で、正教会にも関心を持った。11歳で軍籍に入ったのは貴族の子弟の慣習によるもので、1755年に近衛騎兵連隊へ配属された。
大学ではギリシア語と神学に優れ、1757年に金メダルを得て、12人の学生の代表としてペテルブルクに派遣された。しかしその後は学業を怠り、放校されて近衛連隊に戻った。このころは酒、賭博、放縦な恋愛に明け暮れ、多額の借金を負った。1762年、グリゴリー・オルロフらがピョートル3世を廃位してエカチェリーナを即位させたクーデターに、23歳の軍曹として自らの連隊の代表で参加した。女帝が軍を閲兵する際、剣の飾り紐が足りないのを素早く差し出したという逸話がある。その後は少尉に昇進し、侍従に取り立てられ、女帝の物まねで気に入られた。スウェーデンに政変の報を伝える任務も務めた。1768年からの露土戦争では軍人として頭角を現した。
1773年のプガチョフの乱の鎮圧でも活躍し、女帝と結ばれた。10歳年上の女帝にとって、家庭に恵まれなかった生涯唯一の真の夫ともいえる存在となり、私生活でも政治や軍事でも欠かせないパートナーとなった。極秘に結婚し、1775年に娘が生まれたという説があり、1162通に及ぶ往復書簡が可能性をうかがわせるが、真相は研究が続いている。男女の関係がなくなった後も二人は夫婦のように結ばれ、彼が選んだ愛人を女帝に送ったとも言われる。1775年には南部の新しい州の総督となり、ヘルソン、ニコラーエフ、セヴァストポリ、エカテリノスラフを建設し、黒海艦隊の基地を整えた。
1782年に内乱の鎮圧を命じられてクリミアに侵攻し、親ロシアのシャヒンをハーンの位に戻したが、再び内乱が起こると見て、ペテルブルクで直接統治を進言した。こうして1783年4月8日にクリミアの併合が宣言された。セヴァストポリの要塞と黒海艦隊を設けた。1787年に露土戦争が再燃すると、陸海の元帥を兼ね、実際の指揮はスヴォーロフが執った。1791年のヤッシーの講和で黒海北岸がロシア領となり、新設のノヴォロシア県の総督に任じられた。1787年の女帝のクリミア視察では、村の絵を描いた書き割りを並べて見せたという、いわゆるポチョムキン村の逸話があるが、誇張とされる。1791年10月5日(ロシア暦)、ヤシからニコラーエフへ向かう途中の草原で倒れ、52歳で病没した。晩年は女帝に軽んじられたとも言われるが、女帝は訃報に「夫」の死を深く嘆いた。墓はヘルソンの聖エカテリーナ大聖堂にある。倒れた場所には1年後に記念の石碑が建てられ、一時忘れられたが、2016年に修復された。聖アレクサンドル・ネフスキー勲章や黒鷲勲章、エレファント勲章などを受けた。
同じ年に亡くなった人物
- Tomas de Iriarte (1791年)
- ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア (1791年没)
- ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1791年没)
- フランシス・ホプキンソン (1791年没)
- ゲオルク・クリスティアン・エーダー (1791年没)
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