伝記
ペトルス(ペトロス、英語名ピーター)は、六世紀後半のビザンツ帝国の将軍で、皇帝マウリキウス(在位五八二年〜六〇二年)の弟である。生年は五四五年頃、生地はカッパドキアのアラビッソスとされ、没年は六〇二年末で、死んだ場所はコンスタンティノープルまたはカルケドンとされる。クロパラテスの位を帯びた。
父は元老院の指導者パウルスで、兄弟姉妹には皇帝マウリキウスのほか、フィリッピコスの妻となったゴルディア、テオクティステがいた。息子ドミティアヌスはメリテネの司教になった。もっとも、ドミティアヌスについては、ペトルスの子とする記録がある一方、マウリキウスの従兄弟とする記述もあり、父の名についても、別の名を挙げる文献があって、確かな点は絞りにくい。マウリキウスの治世の初め、ペトルスは宮廷に召され、父とともにマルケルスの財産を与えられたとされる。クロパラテスの位もこの頃に得て、死ぬまで保ったと考えられている。
軍人としては、プリスクス、コメンティオルスとともに、マウリキウスのバルカン遠征における三人の総司令官の一人となった。五九三年の秋、プリスクスの後任としてトラキア方面軍司令官に任じられた。プリスクスは五九三年に、ドナウ川北岸で冬を越してスラブ人との戦いを続けよという皇帝の命令に従わなかった。ペトルスは能力ではプリスクスに劣るとされるが、兄である皇帝に忠実だったため、後任となった。五九四年の春、ペルイントスとドリジパラを経てオデッソスの軍に合流したが、軍は支払いの制限を知って反乱を起こした。ペトルスは不評の少ない措置を発表して兵をなだめた。
その後、マルキアノポリスを経てドナウ川の北へ向かったが、目立った勝利を得られず、ピラガストスに敗れた。この失敗で解任されてコンスタンティノープルに戻り、プリスクスが再び司令官に就いた。ただし別の記述には、五九四年にマルキアノポリス付近でスラブ人を破り、ノウァエからドナウ川の河口までの川筋を保ち、さらに川を渡ってヘリバキア川まで進んで多くのスラブ諸部族を破ったとするものもある。五九五年には、首都のアレオビンドス地区に、聖母に捧げる教会を建てた。
六〇一年の夏から秋にかけて、ペトルスは再びトラキア方面軍司令官に任じられた。軍をドナウ川に進め、アヴァール人の侵入を防ぐためにダルダニアへ向かい、冬にはアドリアノポリスに戻ったとされる。ドナウ川を越えてアヴァール人の地に攻め入り、いくつかの戦いに勝ったともいわれる。六〇二年の夏、マウリキウスはアヴァール人の首都近郊への攻撃を恐れてペトルスにドナウ川を渡るよう命じ、秋には軍に北岸での越冬を命じた。ペトルスは、かつてのプリスクスと違い、この命令に逆らおうとはしなかった。しかし兵は反乱を起こし、ペトルスが静めようとしても及ばず、軍はフォカスを皇帝に推戴し、首都へ進んでマウリキウスを倒した。ペトルスは首都に逃れて兄に事態を知らせたとされる。ビザンツ以外の側の伝えでは、兵たちが最初に皇帝に望んだのはペトルスだったが、彼が受けなかったとするものもある。その年の暮れ、ペトルスはマウリキウスの支持者らとともに、フォカスに殺された。歴史家テオフュラクトス・シモカッテスはペトルスを無能に描いたが、その見方は、唯一生き残った証人であるプリスクスに頼ったものと指摘される。ペトルスの軍事知識は洗練されており、マウリキウス帝の『ストラテギコン』の著者の候補に挙げられることもある。
同じ年に亡くなった人物
- テオドシウス (マウリキウスの息子) (602年)
- マウリキウス (602年没)
- バヤン1世 (602年)
- コメンティオルス (602年)
同じ地域に関係する人物
- アフメト・ハムディ・タンプナル (1962年没)
- アンドロニコス3世パレオロゴス (1341年没)
- エンリコ・ダンドロ (1205年没)
- レフィク・サイダム (1942年没)
- レオーン4世 (780年没)