伝記
クリストフ・ヴィリバルト・グルックは、1714年7月2日に生まれ、1787年11月15日に没したオペラの作曲家で、現在のドイツに生まれ、現在のオーストリアとフランスで活躍した。現在上演されるのは『オルフェオとエウリディーチェ』などいくつかのオペラにとどまるが、西洋音楽史では「オペラの改革者」として名を残している。ほかにバレエ音楽や器楽曲も手がけた。
バイエルン・オーバープファルツの出身で、父はボヘミア系の貴族ロプコヴィツ家に仕える林務官であった。少年時代はよくわからず、父についてボヘミア各地を転々としたらしい。18歳のときプラハ大学で音楽と哲学を学んだ。おそらくロプコヴィツ家の支援を受け、20歳のころウィーンの同家の邸宅で働くようになり、そこで会ったミラノのメルツィ公爵に雇われてミラノへ行き、サンマルティーニに学んだと言われる。1741年にミラノで、メタスタージオの台本による最初のオペラ『アルタセルセ』を上演し、以後の5年間に少なくとも8つのオペラを上演した。この時期の作品は、かなり保守的なイタリア語のオペラ・セリアであった。
1745年にロンドンへ呼ばれ、ジャコバイトの乱に立ち向かう軍を鼓舞する作品を1746年1月にヘイマーケット劇場で上演したが、あまり成功しなかった。1748年にはウィーンでマリア・テレジアの誕生日とアーヘンの和約を祝うオペラ『セミラーミデ』をブルク劇場で上演して大成功したが、メタスタージオは、過去の作曲家たちと大きく異なるグルックの音楽を「非常に野蛮で耐え難い音楽」と評して拒絶したという。1750年に裕福なウィーンの銀行家の娘と結婚して経済的に自立した彼は、以後ウィーンに定住した。ウィーンの宮廷劇場の監督ドゥラッツォと協力して新作を上演し、七年戦争中は予算の関係でイタリア・オペラがめったに上演できず、フランスのオペラ・コミックに集中した。1756年に教皇ベネディクトゥス14世から勲位を授かり、以後「騎士グルック」の称号を用いた。
1761年以降、台本作家カルツァビージと協力し、バレエ音楽『ドン・ジュアン』と代表作『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年)を作曲した。様式の変化は1767年の『アルチェステ』で全面的に示された。スター歌手よりも作品を重んじ、レチタティーヴォは、通奏低音だけで歌うセッコをやめ、すべてオーケストラ伴奏つきの劇的な形にして演技に割り込まないようにするという考えである。これがオペラ改革につながり、より流麗で劇的な様式は、ワーグナーの楽劇の先駆と見なされている。
改革は生前、議論の的となった。フランス大使デュ・ルーレがパリへの招聘を企画し、グルックは1773年に到着、1774年4月に『オーリードのイフィジェニー』、8月に改訂した『オルフェオ』を上演して大成功した。評論家の意見は二分し、一方はグルックを称賛し、他方はより伝統的なピッチンニを支持した。『トーリードのイフィジェニー』は1779年に初演されて大成功したが、続く『エコーとナルシス』は理解されず、健康を害したグルックはウィーンに戻った。その後は宮廷音楽家として小規模な作品を作り、ほとんど引退した状態で、1787年にウィーンで没した。ウィーン中央墓地に埋葬され、後任にはモーツァルトが任命された。完成されたオペラは35曲ほどで、ベルリオーズは心酔者だった。
同じ年に亡くなった人物
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