伝記
チェウリンは、ゲウィセと呼ばれたサクソン人の一派、西サクソン人の長であり、のちにイングランド西南部を治めたウェセックス王国の王に列せられた人物である。ケアウリンやカエリンとも表記され、593年に没した。系譜では、イングランドに上陸した最初の西サクソン人の首長チェルディッチの孫で、キュンリッチの息子とされる。このチェウリンのもとで西サクソン人は躍進したと伝えられる。
チェウリンの生きた時代は、5世紀末のバドン山の戦いでブリトン人に大敗して以後、約50年間停滞していたサクソン人の移住が、550年代の初めに再び勢いを取り戻す時期にあたる。チェウリンはこの時代に生まれ、その後の25年ほどで南イングランドの大半がサクソン人らの手に落ちたという。アングロサクソン年代記によれば、チェウリンが関わった出来事は556年から592年にかけてのものである。556年にはベラン・ビュルグで父キュンリッチとともにブリトン人と戦い(この地は現在のスウィンドン近郊にある鉄器時代の砦、バーベリー・カースルとされる)、560年に西サクソン王国を継いだ。568年にはクタとともにケント王エゼルベルトと戦ってケントへ追い、ウィバウンダンで二人の大守を殺した。ウィバウンダンは「ウィバの山」の意とされるが、場所は特定されていない。この戦いは、ブリテン島に渡った移住者どうしの最初の衝突として知られる。577年にはクスウィネとともにブリトン人と戦い、ディラムで三人の敵の王を殺した。584年にはクタとともにフェサンラァグでブリトン人と戦い、クタは戦死した。この勝利により西サクソン人の勢力はブリストル海峡に達し、セヴァーン川以西のブリトン人をコーンウォール半島方面の勢力から分断したと考えられている。
592年、ウォーデンズバロウで大殺戮があり、チェウリンは追放された。後継者とされるチェオルによって退位させられたのである。翌593年にチェウリンは没した。591年に西サクソンの王として5年間統治したとされるケオルを、チェウリンのことだとする見方もある。それまでに、チェウリンの関わった戦いの多くは年代の正確さに疑問がもたれているが、その時代に西サクソン人が大きく躍進したことは確かだとされる。その業績から、年代記ではブレトワルダと呼ばれたイングランドの8人の王の一人に数えられた。ただし、権勢がどこまで及んでいたかはわかっていない。
資料の食い違いも多い。年代記は治世を560年から592年の32年間とするが、西サクソン王族系譜目録では7年または17年とされ、近年の研究では7年とする意見が支持されているという。クタやクスウィネを息子とする伝えもあるが、系譜学の立場からは息子かどうか疑わしいとされ、年代記の写本によっては、クタをチェウリンの兄弟とするものもある。チェルディッチの子孫であるかどうかも議論の対象で、チェウリンという名もアングロサクソン起源とは断定できず、むしろブリトン起源に思われるという指摘がある。年代記は890年ごろ、アルフレッド大王の治世に校了したもので、系譜がチェルディッチを通じて祖先ゲウィスに直結するよう、書き手の思惑が反映されているとされる。
このように初期の系譜や活動には答えの出ない疑問が多い。それでもチェウリンは、6世紀末のアングロサクソンの拡大期にあたる統治を行い、南イングランドにおけるアングロサクソン人の拡大の最終局面を語るうえで重要な人物の一人であることは変わらないと見られている。
同じ年に亡くなった人物
- Ino Anastasia (593年)
- 慧可 (593年没)
- クレオダ (マーシア王) (593年没)
- ガリバルド1世 (バイエルン公) (593年)
- Hussa of Bernicia (593年(推定))
同じ地域に関係する人物
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- マーティン・フライシュマン (2012年没)
- ジョン・ベヴィス (1771年没)
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