HISTORICAL PERSON · 1781年没

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ

トゥパク・アマル2世の名でも知られる、スペイン植民地支配に対する反乱(1780〜1782年)の指導者。インカ最後の皇帝の末裔を自称した。

生涯
1781年没
死亡地
ペルー共和国(クスコ県 / クスコ)
出生地
ペルー共和国(Tinta)
出典
世界地図
ペルー共和国(クスコ県)

伝記

ホセ・ガブリエル・コンドルカンキは、トゥパク・アマル2世の名でも知られ、1738年3月に生まれ、1781年5月18日に没した、植民地時代ペルーの反乱(1780年から1782年)の指導者である。生年には1740年や1742年とする資料もある。スペイン領アメリカで18世紀に起きた反植民地反乱のうち、最大のものを率いた。

生まれたのは、インカ帝国の都だったクスコの南方約140キロにあるティンタ郡で、村長にあたるクラカの家である。インカ最後の皇帝トゥパク・アマルの末裔を自称し、その確認を求めてリマの最高司法院に訴え出たこともあった。提出された家系図によれば、祖先は土地の豪族ディエゴ・フェリペ・コンドルカンキと、その妻でトゥパク・アマルの娘ファナ・ピルコワコである。真偽は不明で、純粋な先住民ではなく、スペイン人との混血だったともいわれる。クスコのサン・フランシスコ・デ・ボルハ校で、先住民の有力者の子弟とともに教育を受け、ケチュア語とスペイン語に加えてラテン語も身につけた。ヨーロッパ風の上等な服を着るなど、長くクリオーリョの文化になじんでいたが、のちには、インカの貴族の装いを好み、ケチュア語を日常でも布告でも使うようになった。ミカエラ・バスティダスと結婚して3人の息子をもうけた。26歳のとき、ティンタ郡の三つの村のクラカの地位を継いだ。商いでも財をなし、運送業を営んで、スペイン当局から重い負担金を課されることになる。現地では、先住民への抑圧と収奪が激しく、各地で反乱が相次いでいた。彼は鉱山での強制労働などの免除を求めて当局に請願したが、返ってくるのは拒否か無関心ばかりだった。

1780年11月4日、スペイン国王カルロス3世の命名日の宴に招かれていたコンドルカンキは、途中で退席した。同じ宴には、先住民への強圧的な支配で悪名高い、郡の代官アリアガも出ていた。帰り道、軍勢を率いて代官の前に立ちはだかったのが彼であった。彼は代官を捕らえ、役場の金庫と武器庫から金と武器を集めるよう命じる手紙に署名させ、続けて郡の全住民に集合を求める手紙にも署名させた。11月10日、集まった人々の前にインカ皇帝の礼装を模した服で現れ、代官の悪行を告発して、国王の命だと称して処刑した。そして、すべての代官が同じ罪を犯していると述べ、反乱を宣言した。鉱山や織物工場の強制労働の廃止を訴えて各地の先住民を結集させたため、反乱はアンデス地域を揺るがす大きな動きに発展した。最初に大量の武器と資金を得たこと、スペイン軍の備えがなかったこと、国王の命令を掲げて反乱を正当化したことなどから、スペイン軍は敗北を重ねた。

反乱軍はクスコに迫ったが、陥落が確実と見られた12月18日に、突然反転してティンタ郡まで後退した。理由は定かでなく、クリオーリョと先住民の分裂が一因とされる。翌年1月に再び進撃を始めたときには、スペイン軍が増援を集めて体勢を立て直し、クリオーリョも先住民の力の増大を恐れて協力を拒んでいた。先住民の多くは戦争も銃の扱いも経験がなく、形勢は逆転した。3月21日に北のサンガララーで追撃を受けて壊滅し、コンドルカンキは捕らえられた。脱獄を試みて失敗し、1781年5月18日、クスコで八つ裂きの刑に処された。妻子の処刑を見せられた後であったという。反乱は5か月で鎮圧されたが、植民地政府の威信は大きく揺らいだ。ペルーの旧500インティ紙幣には、その肖像が使われていた。

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