伝記
クックは、グレートブリテン王国の海軍士官、海洋探検家、海図製作者である。通称キャプテン・クック。1728年10月27日に生まれ、1779年2月14日に没した。一介の水兵から英国海軍の勅任艦長にまで昇りつめ、太平洋に3回の航海を行って、オーストラリア東海岸に到達し、ハワイ諸島を発見した。ニュージーランドの海図も作製した。第1回航海では、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げたとされる。
ノースヨークシャー州マートンに、スコットランド人の父と地元生まれの母の子として、5人兄弟の一人に生まれた。父が農場の農事監督の職を得て一家はグレートアイトンの農場に移り、クックは父の雇い主から学資を得て学校に通った。13歳で父とともに働き始め、16歳で漁村ステイテスの雑貨店に徒弟奉公に出たが、店の窓から外を眺めるうちに海に魅せられたという。1年半後、店主は商才がないと見て、ウィットビーの有力な船主ウォーカー兄弟に紹介した。1746年に英国沿岸の石炭運搬船の見習い船員として雇われ、代数学、三角測量、航海術、天文学を懸命に学んだ。3年の奉公を終えるとバルト海の貿易船で働き、1755年には航海士に昇進した。ところが昇進からひと月もたたないうちに、七年戦争に備えて軍備を増強していた海軍に、一介の水兵として志願した。入隊後すぐに准士官に昇り、2年後の1757年には、29歳で航海長の任用試験に合格した。
七年戦争では、軍艦の航海長として1759年のケベック包囲戦に加わった。測量と海図作成の技量を認められ、セントローレンス川河口の測量を任されて、ウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大きく寄与した。1760年代にはニューファンドランド島の入り組んだ海岸の測量に取り組んだ。海霧と強風、冬の極寒という厳しい海域で、帆船による測量は至難で危険な仕事だったが、5年がかりで、この海域の正確な海図が初めて作られた。仕事を終えたとき、クックは「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」と記した。こうした功績で、海軍本部と王立協会の注目を受けた。
1766年、王立協会により、金星の日面通過の観測を目的に南太平洋へ派遣されることになった。38歳のクックは正規の海尉に任官し、エンデバー号の指揮官となった。この船はウィットビー建造の石炭運搬船で、積載量が大きく丈夫で喫水が浅く、暗礁の多い海を長く航海するのにうってつけだった。1768年8月25日に乗組員94名とプリマスを出港し、そこには植物学者ジョセフ・バンクス卿ら王立協会の調査団員11名も加わっていた。ホーン岬を回り太平洋を渡って、1769年4月13日にタヒチに着いた。6月3日の日面通過の観測は、観測器具の精度が足りず、期待した正確な結果は得られなかった。
観測後、秘密指令を開き、伝説の南方大陸を求めて南太平洋を探るよう命じられた。タヒチ人トウパイアの助力を得て、1769年10月にニュージーランドに到達し、ほぼ完全な海岸線の地図を作った。北島と南島を分ける海峡も発見した。1770年4月にはオーストラリア大陸の南東海岸に達し、ヨーロッパ人として初めて東海岸に到達した。4月29日にはボタニー湾に上陸し、6月にはグレートバリアリーフで座礁して修理を余儀なくされた。8月22日にポゼッション島で英国王の名のもとに東海岸地域の領有を宣言した。この航海では、柑橘類やザワークラウトを士官が先に食べて見せて部下に広め、壊血病による死者を出さなかった。第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いにより亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- カリーム・ハーン (1779年没)
- トマス・ハドソン (画家) (1779年没)
- トンマーゾ・トラエッタ (1779年没)
- クロード・ブルジェラ (1779年)
- Cosmas of Aetolia (1779年没)
同じ地域に関係する人物
- トシオ・ナカヤマ (2007年没)
- アール・ボーエン (2023年没)
- レイモンド・キャッテル (1998年没)
- デーヴィッド・ダグラス (1834年没)
- ハイラム・フォン (2004年没)