伝記
ヨハン・ハインリヒ・ランベルトは、1728年8月26日にミュルーズで生まれ、1777年9月25日にベルリンで没した数学者であり、物理学者、化学者、天文学者、哲学者である。地図の投影法や双曲線関数の記号を考案し、円周率が無理数であることを証明したことなどで知られる。主著に『新オルガノン』がある。ミュルーズは当時、スイス盟約者団と同盟する都市国家で、アルザスにあったため、彼はミュルーズ人でもアルザス人でもスイス人でもあり、ドイツ語で多くを書いたことからドイツ人ともみなされる。
父は仕立屋で、一家はワロン地方の出身で宗教上の理由でミュルーズに逃れて約1世紀が経つ貧しいユグノーの家庭であり、7人の子がいた。12歳で学校をやめて家計を助けたが、夜には科学を学び続けた。1744年に非常に明るい6本の尾をもつ彗星を観測したことが、宇宙論への志の出発点になったという。15歳でゾンドガウの鋳造所の事務員として働き(1744年から1746年)、最初の技術と温度測定の経験を積んだ。その後バーゼルの新聞の編集者イーゼリンの秘書となり、この間に数学や哲学、天文学を学んだ。1748年にはイーゼリンの推薦で、スイスのクールにある伯爵家の子らの家庭教師となり、伯爵の蔵書を活用して数学の研究を始めた。1756年から1758年には教え子たちと研究旅行に出て、ヨーロッパの主要な学問の中心地を訪ね、多くの学者と知り合った。最初の論文は1755年に出版した。1759年にアウクスブルクに居を定め、翌年に『フォトメトリア』を著した。1764年にオイラーに招かれてベルリンへ移り、フリードリヒ2世の庇護のもとで経済的な安定を得て、数々の業績を重ねた。ベルリンの王立科学アカデミーの会員となったが、49歳で早世した。
数学では、円周率の無理性を証明した。論文は1760年代にベルリンの科学アカデミーで読まれたものである。双曲線関数を導入し、現在ランベルトのW関数と呼ばれる関数も導入した。1766年に『平行線の理論』で、非ユークリッド幾何学につながる平行線公準の考え方を述べた。地図学では、全部で7つの投影法を考案したとされ、ランベルト正積方位図法とランベルト正角円錐図法の2つは今も使われている。この研究は、のちの等角写像の研究の準備となった。
物理学や天文学でも成果が多い。1760年には、ピエール・ブーゲが発見した吸光に関する法則をランベルト=ベールの法則として自書で紹介した。光度測定の創始者の一人とされ、ランベルトは輝度の単位名にもなっている。光の入射角と照度の関係を示すランベルトの余弦則も彼が発見した。遠近法に関する論考を著し、自分の名の遠近法作図器も作った。湿度による弦の伸び縮みを利用した実用的な湿度計も考案した。天文学では、1761年に彗星の軌道に関する定理を楕円軌道へ拡張し、同年の『宇宙論に関する書簡』では、他の惑星系や他の銀河系の存在などの仮説を立てた。1773年には金星の衛星ニースの軌道を計算したが、これは実在しない天体であった。論理学の分野でも、記号論理学の先駆となる役割を果たしたとされる。
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