HISTORICAL PERSON · 1777年没

ジョゼ1世 (ポルトガル王)

ポルトガルのブラガンサ朝の王(在位1750〜77年)で「改革王」と呼ばれる。国政をポンバル侯に委ね、1755年のリスボン地震後の首都再建やイエズス会の追放が進んだ。地震後は閉所恐怖症になった。

生涯
1777年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(リスボン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

ジョゼ1世は、1714年6月6日に生まれ、1777年2月24日に没したポルトガル王国ブラガンサ王朝の国王である。在位は1750年から没年まで。改革王と呼ばれる。ジョアン5世と、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇女である王妃マリア・アナの子で、七人の子の三番目、男子では二番目にあたる。

リスボンのリベイラ宮殿で生まれ、誕生とともにブラガンサ公の称号を受けた。洗礼は8月27日に行われ、名付け親にはフランス王ルイ14世がなった。兄のペドロが同じ年の10月に亡くなったため、ジョゼが王太子に立てられた。幼い頃は母のもとで過ごし、その強い信仰心の影響を受け、イエズス会士の聴罪司祭からラテン語の初歩を教わった。王子にふさわしい学問や言語、騎術の教育を受けたが、音楽教育については分からない点が多い。一方、イタリア・オペラへの強い情熱はよく知られている。姉のバルバラはスカルラッティの教えを受け、結婚の際に彼とともにスペインへ渡っている。

ジョゼの結婚は、スペインとの外交関係の中で決まった。スペインはフランス王ルイ15世に王女マリアナ・ビクトリアを嫁がせようとして送り出したが、フランス側が別の妃を選んだため、王女は1725年に7歳でスペインへ戻っていた。ポルトガルによるモンテビデオの建設をめぐって両国の関係がぎくしゃくすると、スペイン外交は、バルバラとスペインの王太子の婚姻に加え、ポルトガルの王太子がこの王女を妃とする二重の婚姻を提案した。ジョアン5世はこれを受け入れた。1729年にジョゼはマリアナ・ビクトリアと結婚した。マリアナは音楽と狩猟を好んだが国務を嫌い、他人と政治について語ることはなかった。

1750年、父王の崩御によって35歳で王位を継いだ。政治よりも教会やオペラ、狩猟に興味があったため、セバスティアン・デ・カルヴァーリョ、のちのポンバル侯爵に国政のほとんどを委ねた。ポンバル侯は経済、社会、植民地政策の全般で手腕を振るい、法や経済、社会を再編して、ポルトガルをヨーロッパで高い地位を持つ近代的な国にしようとした。1755年11月1日にはリスボン地震が起き、住宅約1万2000戸が倒壊して、6万人が亡くなった。王の一家は、そのときベレンを散策していて王宮の崩壊を免れたとされる。この災厄で王は石造りの建物に強い恐怖を抱き、宮廷をアジュダの丘のテントの一群に移した。首都はポンバル侯の指揮で巨額の予算を投じて再建され、中心にはジョゼ1世の騎馬像が建てられた。

1758年9月3日に王は暗殺未遂に遭った。ポンバル侯はこれを口実にタヴォラ家やアヴェイロ公ら影響力の大きい貴族を処刑または投獄し、1759年にはイエズス会を違法として、ポルトガルと植民地から追放した。教会が握っていた公教育の支配権と莫大な財産は奪われた。王妃との間には4人の娘がいる。1777年2月24日にシントラで没し、リスボンのサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院にあるブラガンサ家の霊廟に葬られた。王位は長女のマリア1世と、その夫である弟ペドロ3世が継いだ。ポンバル侯を嫌うマリア1世の即位によって、その独裁は終わった。

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