伝記
エメリヤン・イヴァーノヴィチ・プガチョフは、1740年(1742年とも)に生まれ、1775年1月21日に処刑された人物で、エカチェリーナ2世の治世にヴォルガ川流域で起こったコサックの暴動、プガチョフの乱の首謀者である。ピョートル3世を自称した偽皇帝でもあった。
ドン州のコサックの小地主の子として生まれた。4人きょうだいの末子とされ、姓は祖父ミハイルのコサックのあだ名「プーハチ」(木菟)に由来するという。父は1762年に、母は1771年に亡くなった。警察の尋問によると、プガチョフ家は古儀式派を信じる多数のコサックと異なり、当時の公式のロシア正教会の信者であった。17歳か18歳でドン・コサック軍に入り、19歳でソフィア・ネデュージェヴァというコサックの娘と結婚した。結婚後まもなく七年戦争に従軍し、1762年に帰郷してからの7年は、故郷と任地とを行き来した。この間に軍人としての才を認められ、少尉にあたる指揮職に任ぜられた。第1次露土戦争のベンデル包囲戦(1770年)では、自分の剣は「代父」のピョートル1世から贈られたものだと仲間に吹聴し、人をかたる才を初めて見せたという。
1770年、重い病気から回復するため休暇を願い出たが、軍の医務室での治療も前線への復帰も拒み、姉の夫が持ちかけた逃亡計画に加わったことで、逮捕された。48時間後に脱走し、放浪の生活が始まった。その後も何度か捕らえられては逃げ、1772年の秋にはポーランドとの国境の集落から、古儀式派を装ってロシアへ戻った。ヴォルガ川沿いの町に居住を許され、ヤイク・コサックの不満の動きを耳にしたと考えられている。1773年以降は古儀式派の教えに触れ、信仰した。
皇帝ピョートル3世を名乗る着想は、ヤイク・コサックのもとへ着く前にすでに浮かんでいたらしい。ピョートル3世は1762年に退位させられ殺されていた。彼はコサックに特権の回復と古い信仰の復活を約束し、農奴制の廃止も掲げて、支持を集めた。プガチョフ自身は文盲だったが、政府の目を避けてロシア帝政をまねた軍隊や官僚機構を作り、有能な指揮官を集め、各世帯から徴兵した。バシキール人やカルムイク人などの少数民族、工場労働者、炭鉱夫も加わり、司祭やムッラーといった宗教指導者も彼こそ救世主だと農村に広めた。反乱は1773年9月、数十人のコサックとともに始まり、26日には要塞が陥落した。露土戦争で疲弊した農民の不満を背景に初めは成功し、エカチェリーナ2世は当初、事態を軽視して、彼の首に小額の懸賞金をかけたにすぎなかった。
10月にはオレンブルクを包囲し、1774年の初めまでにヴォルガ川とウラル山脈にまたがる広い地域を掌握した。しかし領域の急速な拡大は戦力を分散させ、1774年4月にオレンブルクで大敗した。7月にはカザンで2万5千の軍が皇帝軍を破って町を占領したが、増援を得た政府軍に敗走させられ、残党は500人ほどとなった。この戦いで彼の妻や子供たちは捕らえられ、彼が本物のピョートル3世ではないと証言した。8月のツァリーツィンの戦いで鎮圧され、反乱は終息した。ウラル山脈へ逃れたが、反乱当初から付き従ったヤイク・コサックの裏切りで、9月14日に捕らえられた。スヴォーロフによって鉄の檻に入れられてモスクワに送られ、1775年1月21日に仲間とともに公開処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ (1775年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ (1775年没)
- ペーター・アウグスト (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック公) (1775年没)
- カール (ナッサウ=ウージンゲン侯) (1775年没)
- アフマド・シャー (ムガル皇帝) (1775年没)
同じ地域に関係する人物
- パンテレイモン・ポノマレンコ (1984年没)
- ゲオルギー・シュパーギン (1952年没)
- イリヤ・フランク (1990年没)
- アレクサンダー・アキモフ (1986年没)
- エレーナ・クジミナ (1979年没)