伝記
クレメンス14世は、1769年から1774年まで在位したローマ教皇である。本名はジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・アントニオ・ガンガネッリで、1705年10月31日に生まれ、1774年9月22日に没した。ヨーロッパ諸国の圧力に屈して、イエズス会の解散を命じた教皇として知られる。
医師の子で、ロマーニャ地方のサンタルカンジェロに、次男として生まれたとされる。最初はヴェルッキオで学び、1717年からはリミニでイエズス会の教育を受けた。ウルビーノではピアリスト会士にも学んでいる。18歳でコンベンツアル派のフランシスコ会に入り、修道名はロレンツォ・フランチェスコとなった。ウルビーノで修練を積み、ペーザロ、ファーノ、レカナーティの修道院で神学を学んで、ローマでアントニオ・ルッチの下で学び、1731年に神学の博士号を得た。その後、司祭に叙階され、アスコリ、ボローニャ、ミラノで約10年間、哲学と神学を教えた。ローマの学寮の学長を務め、1741年には修道会の総定義官に選ばれた。1753年と1756年の総会では、総長の職を辞退した。一方、もっと高い地位を望んでのことだとの噂もあった。
説教師として評判が高く、教皇ベネディクトゥス14世の知己を得た。1758年には、ユダヤ人に対する昔からの血の中傷の問題を調べるよう命じられ、これを虚偽と判断した。1759年にクレメンス13世により枢機卿に挙げられた。これはイエズス会総長ロレンツォ・リッチの強い働きかけによるものだったという。
1769年の教皇選挙は、イエズス会の問題にほぼ支配された。前の教皇の時代に、ポルトガルとブルボン家の宮廷であるフランス、スペイン、ナポリ、パルマから、イエズス会は追放されており、これらの国々は会の解散を正式に要求していた。クレメンス13世はこの件を議論する枢機卿会議を計画していたが、その前夜に死去した。選挙は、反イエズス会の諸国大使の動きに強く左右され、皇帝ヨーゼフ2世が弟のトスカーナ大公とともにローマを訪れて、投票用紙や杯を見せられるなど、圧力もあった。3か月に及ぶ長い教皇選挙で、投票は179回に達し、歴史上最長ともいわれる。こうして1769年5月19日に教皇に選ばれた。
ヨーロッパ諸国には反イエズス会の空気が満ちており、就任当初から過酷な対応を求められた。決して喜んでこれを行ったわけではなく、諸国の圧力に屈せず、慎重な姿勢を取り、4年間は態度を保留したと伝わる。しかし、教会と諸国との関係をこれ以上悪化させてはならないと考え、イエズス会を犠牲にすることを決断した。1773年7月21日、小勅書「ドミヌス・アク・レデンプトール」を公布し、イエズス会は解散となった。イエズス会を失うことは教会にとって痛手で、この勅書により、後世には消すことのできない汚名を着せられ、教皇権の至上を唱える人々から厳しく糾弾された。
一方で、1771年にはバチカン美術館を一般に公開した教皇としても知られる。古代彫刻の名品が並ぶベルヴェデーレの中庭一帯は、ピオ・クレメンティーノ美術館と呼ばれ、この名は教皇ピウス6世と本人の名に由来する。1774年9月22日に死去した。雨の日の行列で肺の病を得たとも伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- フロリアン・レオポルト・ガスマン (1774年没)
- カロリーネ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン (1774年没)
- フランソワ・ケネー (1774年没)
- ヨハン・ヤコブ・ライスケ (1774年没)
- ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク (1774年没)
同じ地域に関係する人物
- セルギウス4世 (ローマ教皇) (1012年没)
- スーゾ・チェッキ・ダミーコ (2010年没)
- オルソ・コルビーノ (1937年没)
- シンマクス (ローマ教皇) (514年没)
- ルイジ・マーニ (2013年没)