HISTORICAL PERSON · 1772年没

アフマド・シャー・ドゥッラーニー

ドゥッラーニー朝の初代シャーで、アフガニスタン最初のシャーとして政治的独立を確立した。インドへ進出してムガル朝からパンジャーブとカシミールを割譲させ、王国の基礎を築いた。

生涯
1772年没
死亡地
アフガニスタン・イスラム共和国(カンダハール州 / カンダハール)
出生地
アフガニスタン・イスラム共和国(ヘラート)
出典
世界地図
アフガニスタン・イスラム共和国(カンダハール州)

伝記

アフマド・シャー・ドゥッラーニーは、1722年ごろに生まれ、1772年10月に没したドゥッラーニー朝の初代シャーで、在位は1747年から1772年である。パシュトゥーン人のアブダーリー部族連合に属し、しばしば現代アフガニスタンの建国者とみなされる。生まれは1720年から1722年の間とされ、本名はアフマド・ハーンである。

生誕地についてはヘラートともムルターンとも伝えられ、現代の研究は一般にムルターンを有力とするが、同時代の史料の多くはヘラートを挙げるとして異論もある。父ザマーン・ハーンはヘラートの統治者であったが1721年に没し、アフマドは兄ズルフィカール・ハーンとともにシンダンドとファラーで育った。1720年代半ばに兄がヘラートの統治に招かれた。アフマドが記録に再び現れるのは1731年から1732年で、兄がイランのナーディル・シャーに敗れたため、二人はカンダハールへ逃れ、ホータキー朝の王フサインの政治犯として留め置かれた。ナーディル・シャーがカンダハールを征服すると解放され、アフマドはアフシャール朝の君主ナーディル・シャーの武将として仕え、各地の戦役に従った。

1747年にナーディル・シャーが暗殺されて、アフシャール朝の帝国が分裂すると、アフマドはこれを好機として、カンダハールに進軍して自立した。同年10月、ローヤ・ジルガ(大会議)でアフガニスタン最初のシャーに推戴され、アフガニスタンは政治的独立を確立した。アブダーリー部族連合の名を「真珠の時代」を意味するドゥッラーニーに改め、これは彼が創始した王朝の名ともなった。以後は古い部族名の使用を禁じ、ドゥッラーニーの名を用いさせたが、これは対立するアブダーリーの別の有力者を退けるためとも見られている。アフガニスタンの人々は彼をアフマド・シャー・ババ、すなわち「父アフマド・シャー」と呼ぶことが多い。

1749年春、2万5千の軍でヘラートを征服し、続いてマシュハドとニーシャープールを攻め、1750年春にはアフシャール朝の首都ニーシャープールを陥落させた。1751年には東に向かい、インドのムガル朝からパンジャーブとカシミールを割譲させた。その後も各地で転戦して王国の基礎を築いた。インドへの侵攻は24年間に及び、1757年にはデリーを占領して略奪した。1761年1月14日には、インドの覇権を握りつつあったマラーター同盟の軍勢を第三次パーニーパットの戦いで破り、その北進を中断させて結束を崩した。この戦いは18世紀最大の会戦とされる。治世を通じて15回を超える大規模な遠征を行い、うち9回はインド、3回はホラーサーン、3回はアフガン領トルキスタンを舞台とした。

晩年も、パンジャーブの支配を保つためシク教徒への遠征を重ねた。絶え間ない戦いで健康を損ね、1772年にマルーフで没した。遺体はカンダハールに葬られ、廟が残っている。歴史家からは卓越した軍事指導者と評され、「当時のアジア最大の将軍」とも呼ばれる一方、その遠征はインドを混乱に陥れ、北インドにおけるイスラム勢力の衰退を早めたと指摘され、各地で無差別の虐殺や略奪、住民の奴隷化があったことも伝えられる。

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