伝記
ゲオルク・フィリップ・テレマンは、後期バロックを代表するドイツの作曲家である。1681年3月24日にマクデブルクの中流家庭に生まれ、ルター派の洗礼を受けた。父ハインリヒは伝道師で、彼が4歳になる前に亡くなり、牧師の家系の母マリアに育てられた。小学校ではヴァイオリン、リコーダー、ツィターなどを演奏して級友と親しんだ。10歳でギムナジウムに通い、ラテン語とギリシャ語の成績がよく、音楽の進歩が早かったため歌唱指導を任された。ほとんど独学で楽譜の書き方を覚え、12歳でオペラを作曲した。母は音楽の道に反対し、楽器を取り上げても、彼は隠れて作曲の勉強を続けた。
13歳頃、母の方針で音楽から引き離す目的で遠方に送られたが、病気の教師に代わって作曲と指揮を行い、成功した。4年後にヒルデスハイムのギムナジウムで学び、近郊のハノーファーやブラウンシュヴァイクに通って劇音楽や教会音楽、イタリア音楽に触れた。1701年、母の意向で大学に進むことにしてライプツィヒに向かい、途中のハレで若いヘンデルと知り合って、生涯の文通の友となった。ライプツィヒ大学では法学を学ぶ一方、学生と市民の楽団コレギウム・ムジクムを率いた。1704年にゾーラウの宮廷楽長となり、フランス風を好む伯爵のためにリュリやカンプラの楽譜を研究し、2年間に管弦楽組曲を200曲も作ったと自ら記している。年の半分を過ごしたプレッセやクラカウではポーランドの民俗音楽に触れた。大北方戦争の影響で職を辞し、1708年にアイゼナハの宮廷楽団を組織し、同地出身のバッハと知り合い、終生の親交を結んだ。1712年にはフランクフルト市の音楽監督となり、教会楽長も兼ね、アイゼナハの「不在楽長」として作品を書き送った。1719年にはドレスデンの祝典でイタリア・オペラに感銘を受けた。
1721年、40歳でハンザ自由都市ハンブルクの音楽監督とヨハネウム学院のカントルに選ばれ、約1年後には歌劇場の音楽監督も引き受けた。以後46年間、市の音楽全体を指導して、ヨーロッパで随一といわれる名声を得た。1722年にライプツィヒの聖トーマス教会楽長の後任に招かれたが断り、代わりにバッハが招かれたという。1726年にはバイロイト宮廷の楽長にも任命され、器楽作品や歌劇を送った。1729年にはロシアからの招きを断り、落ち着きたい気持ちが名誉への欲より強かったと記している。1737年にはパリに約8か月滞在し、四重奏曲集などを出版して栄誉を受けた。予約販売や、毎号新作楽譜を載せる隔週の音楽雑誌「忠実な音楽の師」で、商売の才も示した。結婚には恵まれず、最初の妻とは1年あまりで死別し、再婚した妻は多額の負債を作ってのち家を出た。9人の子のうち音楽家になった者はいない。
1767年6月25日、86歳で没するまで作曲を続けた。バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親で、後任のハンブルク音楽監督にはこの次男が就いた。作風は、フランス、イタリア、ポーランドの舞曲を取り入れ、ロココ風も示し、バロックと古典派の中間に位置するといわれる。晩年も創作意欲は衰えなかった。作品は3600曲以上が確認され、教会カンタータだけで1700曲を超えるとされる。この数はクラシック音楽で最も多いとして世界記録にも認定されている。
同じ年に亡くなった人物
- Johann Christoph Glaubitz (1767年)
- Johann Elias Ridinger (1767年)
- フランソワ・ボアシエ・ド・ソヴァージュ・ド・ラクロワ (1767年没)
- マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルン (1767年没)
- ヨハン・ショーベルト (1767年没)
同じ地域に関係する人物
- マティアス・ヴェックマン (1674年没)
- カール・ヴィルヘルム・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公) (1806年没)
- フィリップ・ニコライ (1608年没)
- C・W・ツェーラム (1972年没)
- インゴ・シュヴィヒテンバーグ (1995年没)