伝記
ウィリアム・ホガースは、ロココ時代のイギリスの画家であり、版画家、風刺画家である。1697年11月10日にロンドンで生まれ、1764年10月26日に没した。イギリスは長らく絵画史の面で不毛の土地であり、外国出身の画家を除いて見るべき画家がいなかったが、ヨーロッパ大陸でロココ美術が全盛の18世紀になって、ようやく独自の様式をもつ絵画が生まれた。ホガースは、そうした18世紀のイギリス画壇を代表する国民的画家である。
父リチャードは貧しいラテン語学校の教師で、教科書の著者でもあった。ロンドンのバーソロミュー・クロースで生まれ、11月28日に洗礼を受けた。母はアン・ギボンズといい、妹にメアリーとアンがいる。若いころ、レスター・フィールズの彫版師エリス・ゲンブルのもとに徒弟として入り、商店の引き札などの彫版を学んだ。一方で、ロンドンの街の生活や市に強い関心を抱き、目にした人々をスケッチして楽しんだ。このころ父はラテン語で話すコーヒー店を開いて失敗し、借金のためフリート監獄に5年間入れられた。ホガースはこの父の投獄について、生涯語らなかった。この出来事が、彼の絵や版画に厳しさを与えたといわれる。1718年に父が死去し、同年5月11日に埋葬された。ホガースは、その前後に版画家として独立した。
1720年4月には、自分の名で紋章や店の請求書を彫り、書店向けの版画を作る彫版師となっていた。同年にはセント・マーティンズ・レーンの絵画学校に入り、のちの有力な芸術家たちと学んだ。1724年末にコヴェント・ガーデンにできた別の素描学校にも通った。そこを運営していたのは、国王ジョージ1世の宮廷画家サー・ジェームズ・ソーンヒルで、ホガースは彼の描いたセント・ポール大聖堂のドームの装飾や、グリニッジ病院の大広間の絵が、徒弟のころから頭にあったと後に語っている。1724年ごろにフリーメイソンに加入し、のちに多くの支部にも加わったという。1727年にはタペストリー職人から、「彫版師であって画家ではない」と聞かされて仕事を断られたため、裁判を起こし、1728年5月28日に勝訴した。
初期の風刺的な作品には、1720年の南海泡沫事件を扱った銅版画や、『富くじ』、『当時の英国演劇の公平な眺め』などがある。1726年には、サミュエル・バトラーの『ヒューディブラス』のための大きな版画12点を制作した。その後、小さな「会話画」と呼ばれる油彩の群像画に取り組んだ。やがて、当時の世相を痛烈に風刺した連作で知られるようになり、庶民に人気を博して、「風刺画の父」とも呼ばれた。『娼婦一代』『放蕩息子一代』などの版画連作のほか、欲得ずくの政略結婚とその不幸な結末を描いた『当世風結婚』が著名である。『残酷の4段階』もある。1729年3月23日には、ソーンヒルの娘ジェーンと駆け落ちして結婚したが、のちに二人はソーンヒルと和解した。
生涯を通してパグを愛し、愛犬トランプは自画像にも登場するほどで、人々は彼を「パグ画家」と呼んだ。夫妻に子はなく、ともに犬をかわいがった。1764年に没すると、遺言により妻ジェーンが遺産を相続し、ホガースの版画を売って暮らしたが、やがて売上が落ちて王立芸術院からの年金に頼った。
同じ年に亡くなった人物
- クリスティアン・ゴルトバハ (1764年没)
- ヨハン・マッテゾン (1764年没)
- ピカンダー (1764年没)
- ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第4代デヴォンシャー公爵) (1764年没)
- フランチェスコ・アルガロッティ (1764年)
同じ地域に関係する人物
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- アントニー・アシュリー=クーパー (第3代シャフツベリ伯爵) (1713年没)
- スタンリー・ラウス (1986年没)
- ポール・ジョンソン (歴史家) (2023年没)
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