HISTORICAL PERSON · 1763年没

アウグスト3世 (ポーランド王)

ポーランド・リトアニア共和国の国王でザクセン選帝侯。アウグスト2世の唯一の嫡出子で、1733年に父の死去を受けて選帝侯となり、翌年にポーランド王に即位した。

生涯
1763年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ザクセン州 / ドレスデン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ドレスデン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ザクセン州)

伝記

アウグスト3世は、1696年10月17日にドレスデンで生まれ、1763年10月5日に没した、ポーランド・リトアニア共和国の国王(在位1734年から1763年)兼ザクセン選帝侯(在位1733年から1763年)である。ザクセンではフリードリヒ・アウグスト2世と呼ばれる。強健王アウグスト2世の唯一の嫡出子で、数多い異母弟の一人に、フランス元帥となったモーリス・ド・サックスがいる。

母はブランデンブルク=バイロイト辺境伯の娘クリスティアーネ・エーバーハルディーネである。母は生涯熱心なプロテスタントで、王妃としての30年のあいだ、カトリックの国ポーランドに一度も足を踏み入れず、クラクフで戴冠することもなかった。ポーランドの貴族はこれを挑発と受け取り、王子は当初から偏見をもって見られた。幼いころから後継者として育てられ、各地から優れた家庭教師が招かれて、ポーランド語、ドイツ語、フランス語、ラテン語のほか、数学、化学、地理を学んだ。ロシア語も教わったが、流暢には話せなかった。父がポーランドにいるあいだは祖母のデンマーク王女アンナ・ゾフィーに預けられ、ルター派として育てられたが、これはポーランド人には好ましくなかった。そこで父は、王子をカトリック諸国の旅に出した。1712年、イタリアを巡る旅の中でカトリックに改宗した。公表されたのは1717年で、ザクセンのプロテスタント貴族の不満を招いた。1714年にはヴェルサイユでルイ14世に温かく迎えられ、宮廷の舞踏会などに加わって、フランス語や外交の作法を身につけた。1715年にはフランスの各地を旅している。1719年8月、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘マリア・ヨーゼファと結婚した。夫妻には15人の子が生まれ、11人が成人した。その後、選帝侯に即位するまで、ほとんど政治には関わらなかった。

1733年2月に父が死去すると、ザクセン選帝侯に即位した。選挙王制のポーランドでは、先王の子でもセイムの自由選挙を経ないと王位を継げなかった。そこで、国事詔書を承認して皇帝カール6世の支持を取りつけ、ロシア帝国のクールラント公国への主張を認めて女帝アンナの支持も得ると、1733年10月にポーランド王に選ばれた。ロシア軍の助けを借りて、先に王位にあったスタニスワフ・レシチニスキを追い出し(ポーランド継承戦争)、1734年1月にクラクフで戴冠し、1736年6月にワルシャワで広く承認された。

1740年にカール6世が死去すると、皇帝の娘婿として、マリア・テレジアに敵対してハプスブルク家領の一部を請求したが(オーストリア継承戦争)、1742年にはマリア・テレジア支持に鞍替えを余儀なくされた。1756年に七年戦争が起こると、ザクセンはプロイセン軍に侵攻され、10月のピルナ包囲戦でザクセン軍は降伏した。ワルシャワに避難したアウグスト3世は、ザクセンを取り戻そうともしなかったとされ、ザクセンは戦争中ずっと占領されたままだった。1763年2月のフベルトゥスブルク条約で戦争が終わるとザクセンに戻ったが、同年10月に死去した。

『ブリタニカ百科事典』第11版によれば、政治の才能も興味もなく、ポーランドをロシアの影響下に置き、ザクセンの政治を大臣たちに任せたという。音楽と絵画を愛し、ドレスデンの美術収集を充実させた。後を継いだ息子フリードリヒ・クリスティアンは同年12月に急死し、翌1764年にはエカチェリーナ2世の圧力で、スタニスワフ2世がポーランド王に即位した。

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