伝記
元帝は、南朝梁の第4代皇帝である。姓は蕭、名は繹である。梁の武帝蕭衍の七男で、母は阮令嬴。天監7年(508年)8月に生まれ、6歳の天監13年(514年)7月に湘東郡王に封じられた。会稽郡太守などを経て入朝し、侍中・丹陽尹となり、普通7年(526年)10月に荊州刺史として江陵に出向した。のちに江州刺史として尋陽へ移り、太清元年(547年)1月に再び荊州刺史として江陵に下った。幼少時に病気で片目を失明した人物で、書物を好み、文学には通じていたが、軍事には明るくなかったとされる。王妃の徐昭佩とは仲が冷え切っていた。
太清3年(549年)3月、東魏から亡命してきた侯景が反乱を起こして建康が陥落し、武帝は抑留された。蕭繹は、都の救援には兵の一部を送っただけで、主力を率いて国境付近に留まったのち、武帝と侯景の和睦の知らせで兵を引いた。その後、武帝の密詔が届けられたとされ、司徒の位を受けて皇帝の代行にあたる承制を行うことになった。5月に武帝が没し、侯景に擁立された簡文帝の即位を認めず、江陵で独自の政権を運営した。このため湘州の河東王蕭誉、益州の武陵王蕭紀ら他の皇族と対立した。長男の蕭方等が蕭誉攻撃に向かって敗死し、蕭繹は嘆かなかったばかりか、徐昭佩に自殺を強いたとされ、以後、妻を迎えなかったという。また、湘州攻めの将の方針をめぐる小さな食い違いから王僧弁の脚を剣で刺して殺しかけ、鮑泉が単独で軍を率いることになったが、王僧弁は母の必死の嘆願で助かったとされる。
550年5月に王僧弁が湘州を陥落させ、蕭誉を斬った。襄陽の岳陽王蕭詧が江陵を攻めたが、これを撃退した。蕭詧は西魏を頼り、以後も敵対し続けた。侯景に対しては、551年に部将の宋子仙に郢州を落とされて不利となったが、5月に侯景が巴陵の王僧弁に敗れたころから形勢が変わり、552年3月には王僧弁や陳霸先らが建康を陥落させ、逃亡した侯景は部下に殺された。同年11月、蕭繹は江陵で皇帝に即位したが、旧都の建康には入らず、江陵に留まり続けた。
552年に蜀の蕭紀が皇帝を称して東へ攻め上ると、元帝は陸法和らに防がせ、西魏に蜀の背後を突くよう要請した。553年、西魏の宇文泰は尉遅迥を送って潼州と成都を占領し、元帝は蕭紀を倒したが、蜀を西魏に奪われた。元帝はこれを後悔して国境の原状回復を求め、北斉に西魏を攻めさせようとした。西魏は反発し、554年に蕭詧を梁の正統として擁立し、于謹を総大将に江陵へ攻め込んだ。元帝は王琳や王僧弁らに救援を求めたが、江陵は落ち、捕らえられた。同年12月、蕭詧によって土嚢を積まれて圧殺された。没年は555年1月27日ともされる。西魏は蕭詧を皇帝に即位させ、建康の王僧弁は元帝の九男の蕭方智(敬帝)を擁立した。
元帝は歴代の皇帝の中でも学問を愛した人物で、自ら多くの著作を残し、蔵書は十数万巻(14万巻以上ともいう)に及んだという。歴史家からは、侯景との戦いよりも、帝位を争いうる者の排除に力を注いだと批判された。老荘の書を好み、西魏軍が江陵に押し寄せるなかでも『老子』の講義を行い、群臣は武装したまま聴いたという。陥落の直前、「書、万巻を読めども、なほ今日あり」と言って、蔵書をすべて自らの手で焼き払った。現存する編著に、諸子百家に倣った『金楼子』がある。荊州刺史のころには、梁に朝貢する外国使節の風貌を調べて職貢図を作ったと伝えられ、裴子野の方国使図を参考にしたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- 聖ヘリア (555年)
- マーク王 (555年)
- テウデバルド (555年)
- ウィギリウス (ローマ教皇) (555年没)
- Gubazes II of Lazica (555年)
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