伝記
キュレネのアルケシラオス4世は、バットス家(バッティアダイ)の最後の王で、キュレネの第8代の王である。ペルシアの支配下にある従属王として統治した。第7代の王バットス4世の唯一の子で、父の死んだ紀元前465年に王位を継いだ。祖父はアルケシラオス3世にあたる。統治の年代は正確には分かっておらず、生まれは今日のリビアにあたるキュレネだったと推測されている。
王位についたのは非常に若いころだったと考えられている。詩人ピンダロスは第5ピュティア頌歌で、アルケシラオスの思慮と雄弁を同年代の者よりはるかに優れたものとたたえている。治世の初めに、君主制に反対する貴族たちが反乱を企てた。王はこれを厳しく鎮圧した。貴族派の指導者は王の親族ダモピロスで、逮捕されて財産を奪われ、国外追放になった。ダモピロスはテーバイに逃れ、ピンダロスと親しくなり、王に取りなしてくれるよう頼んだ。第4ピュティア頌歌の結びは、ダモピロスをキュレネに呼び戻すよう王に願う内容である。
反乱の後まもなく、アルケシラオスはエウペモスを長とする使節団をギリシアに送り、入植者を募らせた。さらに前462年、第31回ピュティア競技祭に、リビア産の馬を使った戦車競走の馬車を出場させ、優勝した。戦車を操ったのは、アレクシビオスの子で王妃の兄弟にあたるカルロトスだった。エウペモスは勝利ののちに亡くなり、カルロトスがギリシアの入植者をエウエスペリデスへ連れ帰る役目を負った。祝勝のためカルロトスは、栄光の頂点にあったピンダロスを招き、詩人は数か月をキュレネで過ごして、王の前で頌歌を朗誦した。満足した王は、バットス家の栄光をたたえる新たな頌歌を注文した。ピンダロスは、この家が8代にわたってキュレナイカを支配してきたことを挙げて王権の正統性を強調し、反対派と和解するよう王に助言している。
入植者の送り込みと競技祭への参加は、反乱で揺らいだ王の権力を立て直す狙いがあったと、フランソワ・シャムーは見ている。一方、クリスティアン・ヨーランソンは、入植が政治的な支持を得る目的だった可能性を認めつつ、エウエスペリデスと周辺のリビア部族との争いもあり、人口を増やして生き残りを図ったとも説明できるとする。エウエスペリデスは、リビアで最も西にあるギリシア人の町だった。
だが治世は次第に専制的になり、多くのキュレネの貴族を追放し、傭兵を呼び入れて支配を支えた。ピンダロスの頌歌にはキュレネを引き裂く争いへの言及があり、ディオドロスは穏健に統治した初代バットスと、アルケシラオス4世を対比している。キュレネ人は反乱を起こし、王は唯一の子バットス5世とともにエウエスペリデスへ逃れた。前440年、父子はキュレネの市民に殺されたとされ、バットス5世は首を切られて海に投げ込まれたといわれる。これでバットス家の支配は終わり、市民は狭い民主制を宣言したという。ヘラクレイデス・レンボスは王が殺されて民主制が宣言されたと述べるが、アンドレ・ラロンドは、この革命が成立させたのは民主派に敵対する貴族制だったと考えている。
同じ年に亡くなった人物
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- クサントス (歴史家) (紀元前 500年(推定))
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